「馬鹿野郎!」
清雅の怒号が辺りに響き渡った。珍しくも感情を露わにしている清雅を目の当たりにした周囲の者は驚きを隠せずにいた。一方、その声が向けられた相手は、というと。
秀麗はゆっくりと自分の身体が傾いでいくのをハッキリと感じていた。まるで時の流れが自分の周りだけ遅くなっているような感覚。視界の片隅に怒っている清雅の顔が見えた。あぁ、また彼を怒らせてしまった―と。それを最後に彼女の意識は途切れた。


石が流れて木の葉が沈む


「・・・おい。おい!しっかりしろ!」
誰かの呼ぶ声に、秀麗は意識を呼び戻された。うっすらと目を開けると、清雅の顔が目の前にあった。何だか泣きそうな顔をしている―と秀麗は思った。未だ重たい瞼をゆっくりと開くと、彼は顔を緩ませた。
「気付いたか」
横たわった秀麗の身体の横に膝をつき、顔を覗き込んでいた清雅は安心したのか地面にドサッと腰を落とした。
「私・・・」
秀麗は清雅の方を向き、顔を伺った。それに気付き、清雅は優しい声で秀麗に話しかける。
「覚えているか? お前、俺を庇って毒矢を受けたんだ」
「・・・」
秀麗は瞼を一度閉じて、"うん"、という答えの代わりにする。身体が酷く重かった。ゆっくりと毒矢が掠めていった右腕に目を向けると、そこは既に手当がされていて、白い包帯が幾重にも巻かれていた。―しかし、それは血で赤く染まっていた。
秀麗の視線を辿った清雅は、一瞬だけ動きを止めた後、手早く包帯をとり、懐から手巾を取り出して傷の上部を縛り、それから新たな包帯を巻き付けた。
彼は先ほどから何度も止血をしては、弛め、また縛りを繰り返していた。それでも血が止まらなかった。毒自体は問題だが、傷自体はそこまで酷くなかったのに―。
燕青が医者を呼びに行ったが未だ帰ってこない。
そんな清雅の様子をぼんやり眺めていた秀麗は徐に口を開いた。
「…毒矢を射た人物は捕まった?」
その声に清雅はピタリと動きを止めた。
「今はそんなことどうでもいいだろ」
手を止め、秀麗の顔をギロリと睨み付ける。
「そう」
秀麗は興味を失ったかのように視線を空に向けた。
―どうして、あの時咄嗟に清雅を庇ったのだろう、と。
本当はさっきからそればかり気になっていたのだ。別に清雅に義理立てするつもりはない。けれど、勝手に体が動いていたのだ。清雅に向けられた毒矢と清雅の間に咄嗟に飛び込んで―。あげくの果てにこんな有様だ。彼は呆れているだろう。何故かそのことが―哀しい。


彼女の身体の不調に気付いていたのは、おそらく清雅の他にはリオウを除いて誰もいなかっただろう。彼女はいつも気丈に振る舞っていたし、仕事場で一番近くにいる燕青にすら、そのことを気付かせなかった。けれど、清雅はいつからか気付いていた。彼女が時折ふっと表情に暗い影を落とすことに。天敵である清雅を真っ正面から睨め付けている時でさえ、どこか不安げな色がその瞳に混じるようになったことに。
ある時、こんなこともあった。突然表情の抜け落ちた能面の様な顔つきになり、偶然にも近くに居合わせた仙洞令君・縹リオウの呼びかけによっていつもの表情を取り戻した。気を失ったままではあるが、秀麗の頬には確かに赤みが差し、表情も和らいでいる。リオウは側に居合わせた清雅に向けて次のように言った。
―本当ならこの男に任せるのは間違っているのかもしれないが…。
『この女は厄介なモンを抱えてる。だが、今のところ俺やあんたに出来ることは何もない。…ただ見守ることしか、な』
清雅はその言葉の意味するところを汲み取った。
―つまりは、側にいる俺がこいつを見張れ、と。
『…それが何かは教えてくれないのか?』
縹家の姿が以前から見え隠れしているのは様々な報告の中から伺えた。だから多分縹家の仕業だろうということは薄々清雅も気付いていた。しかし、何故―秀麗(この女)なのか。清雅にとって縹家の思惑などどうでも良かったが、ただそのことだけは知りたいと思った。
『これはこの女自身の問題だからな』
リオウはそれだけ言うと、すくっと立ち上がり二人に背を向けて去っていった。
リオウの姿が見えなくなったのを確認すると、清雅はゆっくりと腰を屈めて気を失ったままの秀麗を抱きかかえた。その身体は思った以上に軽かった。前よりも…痩せた気がする。
それから清雅は、仮眠室に秀麗を運び、寝台に彼女を寝かせて布団を掛けると、自分の執務室へと戻った。


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