変わらない日常


―今頃、あの女は何をしているだろうな。


紅秀麗が王を連れ戻すために藍州へ旅立って十日が過ぎた。そろそろ向こうに着いていてもおかしくない筈である。
主の居ない部屋はしんと静まりかえり、出たときのまま綺麗に片付けられた状態で、ただ違うのは棚にうっすらと積もった埃。そしてまた、花瓶に生けられていた季節の花も、彼女の出発の日から姿を消している。
時たま、その部屋の棚に仕舞われている書物を清雅が取りに行く以外は誰も出入りしていない。元々、ここ御史台では清雅、秀麗、蘇芳、そして晏樹の姿くらいしか見かけることはなかったのだから。葵皇毅も部屋に籠もりっきりで滅多に姿を見せない。
この状況を静かだとは思えど、"寂しい"とは清雅は針の先ほども思わなかった。何のことはない。彼らが御史台に拾われる前の状態に戻っただけなのだから。
そして、彼らが藍州から無事に戻ってくる保障はどこにもない。たとえ、無事に王を連れ戻し紫州へ戻ってきたとしても、おそらくは―。


と、清雅は目を通していた資料から顔を上げ、執務室の玻璃の窓から外を眺めた。初夏といえど、もうすっかり日も落ちて、澄んだ月の光だけが深深たる夜の木々を映し出している。
清雅は自分がこんなにあの女のことを気にしているのが急におかしく思えた。その感覚は秀麗と直接顔を合わせて以来、幾度となく味わっている。
清雅は思わず口の端から漏れ出そうになった笑いを堪えて再び資料へと目を落とした。その内容は楊修が吏部で集めた李絳攸に関する情報。彼を叩き落とすのに十分なほどの証拠がそこに確かに書かれている。それを一つ一つ確認していく清雅の唇の端は自然とつり上がる。また、右から左へと文字を辿るその視線は、まるで獲物を追い詰めた時の獣の眼と何ら変わりない。


―あの女は、どんな顔をするだろうな。


李絳攸は秀麗が国試及第する前から彼女の家へ赴き、勉強を教えていた。そしてまた、彼が彼女の国試受験費用を肩代わりしたということも清雅は知っている。李絳攸は秀麗の尊敬すべき師であり、また、紅黎深の養い子である彼は、紅秀麗の結婚相手として紅家にとって最も相応しい相手だった。
後半は秀麗自身は知らないことであろうが。それでも、そんな李絳攸が吏部侍郎を罷免―されたとしたら? しかも、李絳攸を引きずり下ろした者が陸清雅だと知ったとしたら?
叩き堕とす相手である李絳攸のことより、紅秀麗のことを考えている自分に気付きつつも、清雅は思考を止めなかった。これ以上に楽しいことはなかったのだから。
そして、秀麗が藍州から無事に帰ってこなければ良いと思う一方で、無事に戻って来たとしたら、それはそれで面白いと思った。むしろ、あの女なら必ず帰ってくるだろうとも。
帰ってきて早々、恩師の失脚を知り、そしてまた糾弾した者が自分だと知り、あの鋭い眼差しで真っ正面からこちらを見据える彼女の姿を想像するだけで、清雅は背筋がゾクゾクするような感覚を覚えるのだった。


―今日のところはこれくらいにしておくか。


ぱらぱらと何十枚もの資料に目を通すと、清雅はそれを鍵付きの抽斗に仕舞い込んだ。仕事は相変わらず山のようにあったが、それでも遣り繰りすればいくらでも時間は出来るものだ。そういう風にして、これまでと同じようにただ仕事をこなすだけだ。


灯りがふっと消えた後、パタリと扉の閉まる音がする。料紙と墨の匂いが残る静まりかえった御史台の一室。窓から差し込む月の光がその部屋の輪郭をぼんやり描き出す。彼女が藍州に旅立つ前と何ら変わらない部屋。そう、何一つ変わらない。まるで変わらないことが必然であるかのように―。




→→後書き
白虹のネタバレ含みますが…最初、秀麗がいなくて清雅が寂しいとかつまらないとか思ってるかなぁとか考えたんですが、何せ嫌味な男なので(うわ、酷い)この状況を逆に楽しんじゃってるかな、と思いまして。というか、邪魔者が居なくなってむしろせいせいしてるくらいですからね;やっぱり、その辺りは私には無視できませんでした。なので、余りに変わらなさすぎる嫌味な清雅を書いてみました。何の変哲もない、面白みに欠けるモノになってしまった感は拭えませんが(汗)


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