「…よくもまぁ、あれだけ根性なしで生きてこられたものだわ」
秀麗はうーんと両腕を高く伸ばして呟いた。冗官たちの愚痴を聞き終わって、もう外はすっかり真っ暗だ。
「それは僕も思いますよ。でも、仕事ほっぽり出して戻ってこないならまだマシかと」
その隣で対冗官用人生図を描いた料紙の束をトントンと纏めていた青年は苦笑混じりの笑顔を浮かべた。
「清雅さんまで『愚痴』を聞くのに付き合わせちゃってごめんなさい」
はっと気付いたように秀麗はその青年に向かって深々と頭を下げた。
「いいんですよ。好きで付き合っているんですから。…それより、秀麗さんは大丈夫なんですか?」
纏めた料紙を机案の端に積み上げてから、清雅と呼ばれた青年は真剣な顔つきになって尋ねた。
「え…えーっと」
ずばり気にしていたことを言い当てられてしまった秀麗は思わず視線を泳がした。正直、こんなに大変なことだとは思っていなかった。現実は甘くない―。そんな言葉が頭の中でグルグルと巡っている。
「蘇芳さんも言ってましたけど、あんまり他の人にかまけてばかりじゃいけませんよ。もっと、ご自身のことも大切にして下さい」
「えぇ。分かってはいるんですけど…放っておけないじゃないですか」
尤もな清雅の言い分に秀麗は納得するも、ここまで付き合ってしまったのだから引くに引けないところはある。第一、彼らは自分よりも年上だが現実の厳しさを分かっていないところがある。放っておいたら間違いなくクビ切りの対象になるだろう。それに、今日はまだ二日目だ。十分に時間はある。
「秀麗さんみたいな可愛い女の子にそんな風に言われたら男はたまらないですよぉ」
先ほどまで離れた机案で一人黙々と字の練習をしていた楊修が二人の元に近付いてきた。
「楊修さんったら。お世辞言ってもお茶くらいしか出ませんよ?」
そう言って秀麗は三人分のお茶を用意すべく立ち上がった。


暑さ寒さも彼岸まで


「はい、どーぞ」
秀麗は二人の前に湯呑みを差し出して、自分の分を手に席についた。ふわりとほのかな香りが室に漂う。
「は〜。やっぱりお茶は淹れてもらうのが美味しいですねー」
お茶を啜った楊修はほーっと一息ついてからそう言った。お茶を淹れるのは得意だ、と率先してお茶汲みをしていたが、どうやら人に淹れてもらうのも好きなようだ。
「ところで、秀麗さん。私から一つ、質問してもよろしいですか?」
同じようにお茶を啜った清雅は湯呑みを置くと、居住まいを正して秀麗に話しかけた。
「え? はい、どうぞ。答えられることなら…」
秀麗もピンと背筋を伸ばして聞く体勢に入った。
「在り来たりな質問かもしれないんですが、どうして国試を受けられたのですか? 何故、官吏になろうと?」
コホン、と一つ咳払いしてから清雅はそう尋ねた。
「あ、それは私も知りたいです〜女の子が国試、なんて今まで考えられなかったですもんねー」
楊修も純粋たる興味からか瞳をキラキラと輝かせて秀麗の顔を伺った。
「あはは。よく聞かれます。やっぱり、物珍しいんですかね?」
にこやかに秀麗は笑うと、その答えをぽつりぽつりと話し始めた。
「私、子供の頃から官吏になるんだ!って、父に国試の勉強を教えてもらっていたんです。女の子は国試を受けられないんだっていうことを知らなくて。…それでも、父は決してそのことを私には言わず熱心に教えてくれました」
「素晴らしいお父上をお持ちなんですねぇ」
楊修がこう口を挟んだ。
「いえ、父は何をやっても不器用な人で。府庫で今は働いているんですけど、父がこの朝廷で働いていること自体不思議なくらいで。あっ、でも勉強は人に教えられるくらい得意だったんでしょうね。その点は今思うと不思議ですね」
「府庫…ですか」
清雅はポツリと呟いたが、秀麗の耳には届かなかったらしい。秀麗は続けた。
「どうして官吏になろうと思ったか―でしたね。10年前の王位争いを覚えてますか? あの後、官吏になりたい、って心から思いました。天災なら諦めるしかないかもしれないけど、人災なら防げる。官吏になれば、少しでもそういう力になれるんじゃないか―って思ったんです。みんなが一人一人好きな道を選んで生きていけるような機会を与えられるような官吏になりたい、と」
「私はあの頃、まだ貴陽にはいなかったので詳しいことは分かりかねるんですけど―でも大体想像はつきます。そうだったんですかー」
地方出身という楊修がこう言った。
「あの頃の貴陽は確かにひどかったですね。僕は10歳でしたけど、子供心に思いましたよ。お役人は一体何をしているんだ、って」
楊修に続いて、清雅がこう述べた。その声に秀麗が顔を上げると清雅は目を細めて何かを思い返しているようにも見えた。
「自分のための官吏にはなりたくないです。民のための官吏になりたいと思います。使える力を持っている人が使わないでどうするんだ、って思うから」
そのために、州牧位をかけて茶州へ赴いた。更迭されると分かっていながら。官位の為の官吏ではなく、民の為の官吏として。
「民のための官吏―ですか。なかなか理想的ですね」
清雅は机案の上で腕を組み、にっこりと笑った。その顔からすると、どうやら清雅もそうらしい。
「清雅さんも、そうなんですか?」


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