あの女の甘い部分が大嫌いで。
それは、あの人を守れなかった過去の自分の甘さを見るようだったから。
あの女が紅家の名を持っていることに無頓着なことが許せなくて。
それは、次期当主の証である銀の腕輪をはめる前の無力な自分が思い起こされるから。


大嫌いだよ、紅秀麗。俺はお前を絶対に認めない。


御史台のある平和な一日?


梅雨入りした6月のある暑い日のこと。秀麗は御史台で自分に与えられた小さな部屋で仕事をこなしていた。窓から僅かに入ってくる風は少し湿気を帯びていて、首筋にまとわりついてくる髪が鬱陶しかったのか、今日はいつもと違って、顔の横に残すはずの髪もなく、かなりすっきりとまとまった髪型に結っている。


「タンタン、そこの資料とってくれる?」
御史台長官、葵皇毅から新たに与えられた案件に関する資料を整理していた秀麗がちらりと視線を向けると、
「これ?お嬢さん」
タンタンこと榛蘇芳は難しい顔をして読んでいた分厚い書物から視線を右にずらし、机の上に並べられたいくつかの資料の山の1つの一番上の料紙に手を伸ばし、秀麗へ差し出す。秀麗は蘇芳から受け取った資料を確認すると、
「うん、ありがと。よくこれって分かったわね」
「いや、なんとなく・・・」
蘇芳は大雑把なようでいてよく気がつくのだ。彼が無能の官吏ではないことはこういう所からも伺い知れる。再び秀麗と蘇芳は机に向かい、仕事に取りかかる。そうして時たま会話を交わしながら静かに時は流れ。


先ほどまで入ってきていた風が止み、小さな部屋はすぐに熱気が籠もってきたと感じ始めた頃。
「そろそろお茶の時間にしようかしら?タンタンが良ければ」
「あー、うん。もういい加減この難しい文章読むのにも飽きたし」
手近にあった新しい料紙を今まで読んでいたところに挟んで書物を閉じる。
「お嬢さんはこれ、全部覚えてるんだよなー」
「まあね。国試を受けるために子供の頃から勉強してたんだもの」
秀麗は立ち上がり茶器を出して二人分のお茶ー身体の熱を下げると言われている銀針白毫を手際よく淹れ、茶菓子と共に蘇芳に差し出した。
「どーも」
ずずっと茶をすする音だけが部屋の中に響き、ほんの一時の休息時間を二人に与えるのだった。
が。しかし。世の中そう甘くはないものである。そんな二人の一日に一回の休息時間(いわゆる3時のおやつ)を見計らってか、ちょくちょく顔を出しちょっかいをかけてくる男−そう、秀麗の最も敵視する清雅が現れ開口一番に
「仕事をろくに片付けられもしない奴が休憩して良いと思ってんの?」
と言い放ち、口の端を吊り上げて凄絶な微笑で二人を見下ろしてくる。
「自分の健康管理も出来ないようじゃ駄目でしょう?それに何か問題でもあるって言うの?」
秀麗はすすっていたお茶を机に置き、すぐさま戦闘態勢に入り、清雅以外には決して見せないような顔で清雅を舐めつけるようにしてぎろりと見上げる。
「定時に帰れるよう仕事をこなせば、休憩なんて必要ないだろ」
清雅の言うことは尤もなので秀麗もなかなか言い返せない。のだが、どうも言い方が気に障るので秀麗は残りの茶に手を伸ばし豪快に飲み干す。そんな秀麗を面白そうに眺める清雅は、がたりと音を立てて(わざとらしく)椅子を引き、秀麗と蘇芳の間に入るような位置に腰掛ける。
「ちょっと、勝手に座らないで頂戴」
すかさず秀麗が清雅に言いやるが、清雅はそれも慣れたように秀麗の言葉を無視してやり過ごし、秀麗が蘇芳のために取り分けた茶菓子がまだ手がつけられていないことに気づくとおもむろに手を伸ばし、ぱくりと一口で食した。
「あっ、ちょっ、セーガ!それ、タンタンのでしょ」
「もらっても問題ないよなぁ?上官様に逆おうとか、お前は思わないよな?」
入ってから一度も蘇芳の存在など関係ないように振る舞っていた清雅にいきなり話を振られた蘇芳は、もう俺嫌、と内心自分がこの部屋にいることを呪ったが、それも後の祭り。俺の方が年上なのに・・・と愚痴をこぼすことなく素直に
「・・・はい」
と肯くしかあるまい。というか、誰かここに流れる冷たい空気を払拭して下さいと願うしかない。たとえ願ったところでそんな者がこの部屋に現れるはずもないことも知っていたが。
「ところで」
清雅が何かを求めるようにちらりと秀麗に目を遣り、その意味に気づいた秀麗はもう怒る気力も失せたのか、はたまた只でさえ暑いこの日にちょっかいをかけてくる清雅を鬱陶しく感じたのか定かではないが、先ほど出した茶器に手を伸ばし、湯を注いでしばらく置いた後、銀針白毫を清雅に淹れてやった。ついでに茶菓子も新たに三人分取り分けて。茶菓子もこのところ以前にも増して頻繁に大量に作って持ってくるようになっていた。その理由は言うまでもない。
「セーガ様がわざわざこのような狭い部屋にまでお越しになった理由をお聞かせ願いたいものですわ、おほほほほ」
嫌みをたっぷり込めて秀麗がそう言うと、清雅は先ほどまでの態度と正反対に、真剣な顔つきになったかと思うと、
「お前は席を外して紅秀麗と二人きりにしてくれ。これは案件に関する内密の話でな」
蘇芳はこれ幸いにと席をすくっと立ちそそくさと部屋から出て行こうとする。
「あっ、ちょっと、タンタン!」
秀麗が呼び止めるも精神崩壊の危機にまで瀕していた蘇芳がそれを聞くはずもない。
「それじゃ、ちょっくらその辺散歩してきまーす」
と晴れ晴れした顔で爽やかに出て行ったのだった。


清雅と二人きりになった秀麗は蘇芳が出て行った瞬間、顔を弛めた清雅を舐めつけるように見る。
「内密の話って、嘘でしょう? 本当に内密ならタンタンの前で内密とか言わないはずだもの」
「ま、暇だったから寄ってみたっていうのが正直な話だけどな。お前とは違って仕事が早いんでね」
「っ・・・」
「蘇芳は居心地悪そうだったから、ま、逃がしてやったってわけ」
苛立ちの余り清雅の首を絞めてやろうかと思ったが、清雅も一応男。力はあるらしいことは判明しているので、秀麗は伸ばしかけた両手をひっこめた。すると清雅は何を思ったか、おもむろに椅子から立ち上がり、秀麗の後ろに回ると、
「髪、結い直してやるよ。お前にこの髪型は似合わない」
と失礼な事を言い、秀麗がまとめた髪を解き、少し汗ばんだうなじに手を伸ばし髪を梳きやり、秀麗が違和感を覚えるほどの技術をもってして、髪を数束に分けたかと思った次の瞬間にはその束は既に結い終わっており、それを何回か繰り返した後、何処から持ってきたのか透き通った飾りの付いた夏らしい簪を仕上げに差し込んだ。
「完璧」
清雅の手際の良さにあっけにとられていた秀麗はなす術もなく、ただただ結い終わるのを椅子に座って待つのみであった。いつぞやのように逃げるか抵抗することを予測していた清雅は内心拍子ぬけしたのだが、顔にも態度にも出さないものの暑さには弱い方であったので、今日の所はこのくらいでよしとするか、と片付けたのであった。
「また変なことしてないでしょうね?」
手順的に変なことはされてない筈であるが、一応聞いてみるといった風で椅子に座ったまま見上げてくる秀麗の顔を見、
「ま、疑り深くなったのは良いことだがな」
と言って、すっと秀麗から離れる。そもそも秀麗の髪を結い直してやる気になったのは、秀麗の今日の髪型がどうも気に入らなかったからである。一応似合っていたのではあるが、その姿がある人を思い起こさせることから気にくわなかった。胸の奥深くに蓋を閉めてしまった筈の感情。その感情を沸き上がらせる唯一の者は後にも先にも秀麗だけだった。
「ええ、お陰様で」


秀麗から離れた清雅が急に黙り込んでしまったのを見た秀麗はふと、あることを思いつき、いつもなら決して自分から言わないような言葉をかけてみる。清雅に求められるより先に言うのも悪くないだろう。負けを認めることにはならない。
「どうもありがとうございました」
天敵とはいえ、一応なけなしの良心でやってくれたことには感謝しなければ、とも思ったから。
「妙に素直なお前ってのは、気持ち悪いな」
「鏡、見てみな」
そう言われて秀麗は鏡を取り出し覗き込む。そして、感心せざるを得ない。
「ほんっと、あんたって髪結うのは上手よね」
何でこんな天敵の長所を見せつけられなければならないのだろうか。というよりも、何故こんなにも清雅を敵視しなければならないのだろうか、とふと秀麗の心によぎるが、譲れない一線はある。こいつは嫌みったらしい敵だ。人生最大の。
「ところで、この簪、どうしたの?」
「適当に見繕って持ってきただけだ。気にするな」
というか、簪を男が普段から持ち歩いている筈も無かろう。が、秀麗はそこはあえて突っ込まなかった。何故か、触れてはならないことであると直感で感じたからである。しかし、清雅とあろう男がこんなボロを出すものだっただろうか・・・?


ふいに部屋が薄暗くなったかと思うと、遠雷が聞こえてきた。夏ー遠雷ー記憶が駆け巡る。母様の死んだー夏。閃光が部屋の中を浮かび上がらせる。ガラガラガラ、ドーン。巨大な音と共に空気の振動が伝わってくる。
「っ、いやぁぁあああああああああああ!!!」
秀麗は清雅を認識することが出来たが、清雅に弱みを握られるのは嫌(清雅は調査済みかもしれないが)、しかしやはり雷は怖い、でも清雅にだけは抱きつきたくないという一心で、机の下に潜り込み、目を瞑り耳を塞いで大音声で泣き叫ぶ。清雅は秀麗の大音声に一瞬驚いたものの、やれやれ、これが噂に聞くあれですか、といった風に秀麗の観察に徹する。どこぞやの家人のように一晩中添い寝してやる気も、どこぞやの尚書のようになだめ慰めてやる気もさらさらない。が。
「さすがにこれは五月蠅い・・・」
話には聞いていたものの、ここまでとは。清雅の想像をもやすやす越えてしまうような声だった。しかも嫌いな女の。
どうしたものか、と清雅は思案したあげく、仮眠室から秀麗にいたぶられたぼろぼろの布団を持ち出してくると、机の下の秀麗に覆い被せるようにしてやる。暫く秀麗は泣きわめき続いていたものの、雷の襲撃がさめやらぬ内に
「・・・蒸し暑いし、息苦しい」
とぶつぶつ言いながら布団の中から出てきた。もう既に涙は止まっている。
「雷、怖いんじゃなかったのか」
清雅が呆れて言うと、秀麗は
「窒息死する方が嫌だわ」
と当に窒息しかけたように頬を紅潮させながら言った。流石の清雅もこれにはうけたようで、腹を抱えて笑い出した。
「お前、可笑しいよ」
「まぁ、あんたが布団かけてくれたお陰で、今は雷が怖くなくなったから一応感謝しとく。窒息しかけたけど」
ふんっと鼻を鳴らし、しかしすっきりした様子で秀麗が応じる。
「それは良かったな。つーか、せっかく結い直したのに髪の毛ぐちゃぐちゃにしやがって」
「それは悪かったわね。でも、あんたにもう一回結い直してもらおうなんて思わないから。タンタンも帰ってきたようだし」
「あれ、気づいてた?お嬢さん」
ひょっこりと部屋の入り口から顔を覗かせた蘇芳はどうしたものかと困った顔をしている。
「休憩時間が長くなりすぎたわ。そろそろ仕事、再開しましょ。セーガ、あんたも仕事に戻ってよね」
「あーい」
気の抜けた返事をしつつ蘇芳は席につく。清雅もさり気なく秀麗の髪から簪を抜き取り、二人に背を向け、
「ま、暇つぶしにはなったよ」
と、聞こえないほどの声でつぶやき、満足そうに、そしてその凄絶な微笑をたたえて部屋を出て行った。
「なんかさ、お嬢さんとセーガ。なんだかんだ言って仲良いよな」
蘇芳は言ったら二人に半殺しにされるであろう台詞を心の中でそうつぶやくと、再び難解な文章の並ぶ書物を手にしたのであった。




→→後書き
清雅は元々秀麗の髪を結いに来る気満々だったわけですよ。簪もそのせいです。簪はある人の形見の品ですね。違う髪型に結い直したのに形見の簪をさすあたりに矛盾を感じますね。そういう矛盾した所も清雅の一部だと思っていますよ。ところで、秀麗と重なるある人って誰でしょうね?清雅の過去を勝手に偽装してしまいましたな。でもきっと彼にも弱みはあるはずです。一応、人間だし(ひどっ)。秀麗が元々結っていた髪型(Before)と清雅が結い直した髪型(After)のイラスト描けたらいいな…とかいいつつ、よく考えてなかったりする駄目人間。


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