あいつはとうとう俺を追い越して、御史台から去っていった。 あいつが御史台を去る日、それはこの宮城から去る日とばかり思っていたのに。 「よく泳ぐ者は溺れるとも言うわよ」 「溺れさせてみろよ」 そう言い合った日はいつだっただろうか。 溺れてしまったのはいつのことだろう。 出逢ったときから自分には無いものを持っているあいつが憎くて。 それでもそこに惹かれていたのかも知れない。 結局あいつの甘さは今も続いていて、それを壊すことは自分には出来なかった。 それが結局彼女自身の姿なのだろう、そう思った。その甘さに自分は惹かれていた。 そのことを俺は結局認めることになった。 彼女が御史台を去る日 「荷物はこれで全部かしら」 彼女は先日異動の通知を受け、別の部署へと移るため御史台に置いてある自分の荷物をまとめている最中であった。色々と細々したものを持ち込んでいたりしていたので意外と時間がかかってしまった。朝早くから来ていたのだが、荷物をまとめるのはすぐ済むだろうと、午前中は自分の使っていた場所以外の掃除までご丁寧にしてしまったために昼間はにぎやかだった御史台の中は、もう人もまばらになっているような時刻であった。 「おい、もう行くのか?」 そんな中、まだ残って仕事をしていたのか清雅が秀麗の元に現れ、声を掛けてきた。手元の荷物から顔を上げた秀麗は清雅の顔を見てドキッとした。 「あんた…何そんな淋しそうな顔してるのよ。私が居なくなるのがそんなに?」 秀麗は少し驚いたように目を丸くし、清雅の顔を覗き込む。 「…あぁ」 清雅は素直にもそれを認め、秀麗の肩に己の額を乗せてくる。 「ちょっと!重いわよ…」 そう言って秀麗は清雅の頭をどけようとしたが、途中で思いとどまった。清雅が震えているのが伝わってきたからだ。 「…清雅」 「…今暫く…このままでいさせてくれ」 清雅は以前には誰にも見せなかった弱みも今となっては秀麗にだけは見せるようになっていた。弱さも優しさも。そのことにはお互いいつの間にか気づいていた。そして、幾度も清雅は秀麗に心からの口づけをした。秀麗はそんな清雅を理解していて、それを避けることはなく…その光景を見たものがもしいたとすれば、まるで運命で結ばれた恋人のようだ、と形容したかもしれない。そんな二人のことを知るものはいない。周りが見る二人の姿は、いつもいがみ合い、敵対心むき出しでバチバチと火花を散らしている、そんなところだった。 秀麗は肩に乗せられた清雅の頭をぽんぽん、と叩いてやったり、手を伸ばして自分より広い背を撫でてやった。とうの昔に何も言わなくても清雅の心が分かってしまうようになっていた。秀麗以外の誰も知らない清雅の心が。 「私もねぇ、清雅。色々あったけど、あんたがこの御史台にいたからこそ、ここまで来られたんだと思ってる」 まるで子供にお伽話を聞かせるように、甘い声で囁きかける。 「出逢った頃は相当激しかったわよね」 くすっと笑って秀麗は昔を振り返る。ストレス発散のために餃子やら春巻きやらを作ったこと。清雅がちょっかいを出しに毎日あの小さな部屋へ来ていたこと。十三姫の件で、清雅が少数派代表だと知ったこと。などなど。 「女性に対する礼儀っていうものはちゃんとわきまえていたのよねぇ…」 「あの時の清蘭とタンタンったら。今思い出してもやっぱり許せないわ」 そう言って、当時より僅かにではあるが膨らんだ自分の胸を見下ろす。それでも世間一般から見れば…。 「胸と言えば、あの時のこと覚えてる?」 徹夜して残っていた秀麗は書物をとろうと椅子を持ち出し棚の一番上に手を伸ばしていた。が、届かず。深夜であったので、誰もいない。そんな所に残業などしていないであろう清雅が入ってきたのだ。清雅は秀麗を見るなり、 「代われ」 と一言、秀麗の腰を掴みさっさと椅子から降ろし、代わりに自分が椅子に乗って軽々書物を降ろし、秀麗に渡してきた。 「これだろ」 時たま意外なほど優しい清雅に秀麗はどぎまぎさせられつつも素直にありがとう、と言うと 「とってやったお礼に何かくれんの?」 と意地悪そうな目をして言い、嗤った。 「何もあげられるものなんて無いわよ」 秀麗はしまったといった顔をして即座に返す。気をつけていないと清雅のペースに巻き込まれてしまう。 「せっかく男と女が二人っきりでいるんだし…」 その言葉の意味にすぐさま気づいた秀麗は、顔を紅くしつつ 「もうっ、何でタンタンから教わったことをあんたばっかりに適用しなくちゃなんないのよっ!」 と怒って、部屋の隅に逃げる。それを追うように清雅が追いかける。 「逃げるなら部屋の外に逃げりゃいいのにさ。バカだよな、お前も。もしかして誘ってんの?」 部屋の壁と自分との間に秀麗を挟み込み、秀麗を挟んで両手を突き、逃げられないようにする。秀麗がその腕の下をくぐり抜けようとした瞬間、足払いをかけられて転びかける。が、秀麗の顔が床に激突する前に清雅の腕が伸びてきて身体を支える。 「きゃっ!」 と秀麗がびくっと反応する。てっきり足払いをかけたせいかと思うが、どうやら違うようである。そもそも声を上げるタイミングがおかしい。 「いつまで触ってんのよっ。離しなさい」 自分の手元を見ると、どうやら秀麗の胸辺りを思いっきり掴んでいたようだ。 「いや、すまん」 流石に胸の小さいことを気にしている秀麗に対して、これはマズいと思ったので直ぐさまパッと手を離す。 「あああ…あんたっ」 秀麗はわなわなと震え、顔を真っ赤にしながら清雅に畳みかけてくる。 「あたしの胸が小さいのはどうしようもないことであって、努力したって小さいもんは小さいのよっ!見た目も見た目だけど、触ってるのに全く気づかないっていう状況はどうなのよ。そりゃ、気づいてて触ってりゃ変態でしょうけど。あんたもさっさと気づきなさいよね!」 それだけを一気に言い終えた秀麗はどっと疲れた顔をしてへなりと座り込む。 「それは悪かった」 清雅も流石に可哀想に思ったのかそう言った後、しかし更に秀麗を怒らせることを言った。 「ま、小さくたって生きていけるだろ」 「何よ、人が気にしてるのに!」 秀麗がそう返すと、 「俺は小さい方が好きだから」 と十三姫の件の時にも聞いたようなことを言ってきた。 「誰もあんたの好みなんか聞いてないわよ…」 怒りもようやく収まったのか秀麗は情けない声を出す。 「別に好きな奴に胸が小さいからあなたとは一緒になれません、とか言われたわけでもないだろ」 「え?ああ、そりゃまあ…そうだけど」 劉輝や放蕩若様(茶朔洵)や三太(慶張)は別に秀麗の胸がどうとか言ったこともないし、そもそも自分は結婚なんて考えてもない。 それじゃあ何のために気にするのかと聞かれれば困る。なんとなく、である。いわゆる乙女心というものだ。 「なら、別に気にすることないだろ。ま、お前んとこの家人とかあのタヌキみたいに礼儀知らずの男は腐るほどいるがな」 清雅はあれこれと思いを巡らせている秀麗を面白そうに眺めながらそんなことを言う。 「それもそうね」 秀麗は晴れやかな顔で答える。 「それじゃ、続きでもするか」 と清雅が性懲りもなく手を顎にかけてきたので、 「バカ!」 と今度こそ秀麗は清雅の頭をぶん殴って気絶させた後、ずるずると部屋の外に引きずり出したのであった。翌朝の清雅の報復は壮絶なものであったが…。 「実はあの時あんたに言われたこと、嬉しかったのよ?」 秀麗はまるで母親のようにふんわりと清雅を抱きしめる。 「あの時は口が裂けてもそんなこと言えなかったけど、今なら言えるわ」 「ありがとう」 清雅は抱きしめられた瞬間、一瞬強張ったが、すぐに優しい手つきで抱きしめ返してきた。秀麗のまとう優しい香りに慰められたのか、清雅の震えは止まっていた。そして、ゆっくり顔を上げ、 首を傾けて秀麗に唇を重ねてくる。愛しそうに大切な壊れ物を扱うように、そっと。別れ際の恋人のように。秀麗の細い腰に伸ばしていた片手を離し、秀麗の髪に伸ばして結い上げていた髪を解く。そして、その感触をその手に覚えさせるかのように髪を幾度となく梳いた。 そうしてどれだけの時間が経ったろう。既に外は明るくなりかけている。東の空に紅く彩られた雲が見える。清雅はようやく満足したのか唇を離し、秀麗に回していた片腕も離す。それから真っ直ぐ立って、 「俺以外の男にやりこめられんじゃねーぞ」 といつもの調子で言う。 「はいはい」 秀麗は軽く受け流す。清雅という好敵手との出会いは秀麗にいい影響を与えた。 「あと、お前はその甘さを捨てなかったな」 「おあいにく様ね」 秀麗は勝ち誇ったように言う。 「…でも、そんな甘さも好きだった」 「何言うのよ」 あんなに嫌いあっていたのに、こんなに互いの事を理解するようになるなんて。信じられない。後に秀麗は振り返ってそう思うことになる。清雅はもしかして、自分のことが好きだったのだろうか?とも。 「それじゃあそろそろ家に帰るわ」 大きな荷物をよっこらしょと抱えよろめいた秀麗を清雅がそっと支える。 「さよならは言わないわよ」 意地悪そうに秀麗が言う。 「あぁ」 自分にこの別れを納得させるかのように、目を閉じ、肯く。 「いつかまた、会う日が来るでしょうから」 ー秀麗が更に上へ、清雅が更に上へ昇った後。 「当然だ。その日を楽しみにしてろ」 清雅は爛々とした瞳でそう言い放つ。 「それじゃあ本当にこれで最後ー」 清雅は最後の最後の口づけを落とし、すっと離れて、秀麗が振りかえることなく出て行く姿を見つめ、そうしてしばらく秀麗の背が消えて見えなくなった後も秀麗の消えた方向を見つめていた。 →→後書き 秀麗が御史台から去っていく日を想像してみました。原作でもこういう別れ話はきっとあるんだろうけど。それまでに紆余曲折あるんだろうけど。とりあえず色々勝手に作ってみました。秀麗の髪を解いたのは自分がもうその髪を結い上げることが出来ないことに気づいたからかもしれませんね。最後の最後に結い直してやらなかった理由。清雅は実は素直な子だと思ってます。秀麗にだけ感情を吐露してしまうとか、そういうのがあれば尚良いと思います。 |
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