秀麗は無言でただひたすらある場所を目指して早歩きしていた。 行く道々で知り合いに声をかけられるたびに秀麗は急いでいる様子をおくびにも出さず、丁寧に対応した。そして話を終えるとまた足をせかせかと動かして歩き出す。今日はなぜか道々でよく知り合いに会う。こういうときに限って、と秀麗は内心イライラしつつも平静な顔をして歩いていた。


それは乙女の一大事?


秀麗の目指す場所は―厠。
「厠に行きたいので失礼します」
うら若き乙女がそんなことを口に出して言えるはずがない。
女性が使える厠が遠いのだ。後宮にしかない。秀麗が初の女性官吏とあって厠事情を忘れていたこともあって女性用の厠はまだ出来上がっていなかった。秀麗が官吏になってから大分経ったのに、と思われるかもしれない。しかし彼女が実際の仕事についてから茶州に赴いていたりと実質宮廷にいなかったために問題が忘れ去られていた。そして秀麗が冗官を経て晴れて御史台に任官してから問題は明るみになった。秀麗の上申書が発掘されて。後宮にいるときには気づかなかったし、黄尚書の下で夏に侍童として働いたときには男として振舞っていたので男性用の厠を使わせてもらっていた。が、普段から男性用の厠を使うのはさすがに、というわけで、その旨をしたためた上申書を提出していたのだが。色々あってどうやら放置されていたらしい。そしてようやくこの度掃除の際に掘り出された、というわけだ。厠が完成するまでは特別に後宮の女官たちが使用している厠を使うようにとの許可を得ている。許可が下りなかったら男性用の厠を使うことになったのだろうかと内心ぞっとする。厠掃除はさんざんやらされたけど、流石に一緒に使うのは嫌。一応そんな乙女心は秀麗も持ち合わせていた。


と、角を曲がったところで清雅に鉢合わせた。何でこんなところで、と内心思いつつも清雅になんか構ってられないと思い、無言ですれ違おうとする。が、清雅が秀麗の進路を塞ぐ様に立ちはだかる。
「退(ど)いて頂戴」
秀麗は絶対零度の眼差しで清雅を射抜く。しかし清雅はまったく動じない。むしろ凶悪嬉しそうな顔をしている。
「あんたに構ってる暇はないのよ」
「誰に向かってものを言っている」
清雅も秀麗に負けず劣らず絶対零度の冷たい視線で見下ろす。秀麗は心の中で舌打ちした。こいつは。いかにしてこの状況を切り抜けられるか秀麗は思案する。
「仕事の邪魔しないでよ」
ごくありきたりな台詞。言った直後に秀麗は後悔する。清雅はあたしの仕事を邪魔するのが趣味みたいなものだ。
「どこに仕事しに行くつもりだ?お前が用があるのは俺くらいだろ」
清雅はそんな秀麗の心を見透かしたようにニヤリと嗤う。
「お生憎様、あんたはお呼びじゃないのよ」
「そんなに急いで…ってことはあれか。か…」
清雅のみぞおちに秀麗の拳が見事に決まった。清雅に気づかれた恥ずかしさ半分、日々の恨みの分も叩き込む。
不意打ちに流石の清雅もこれを防げなかった。呻き声が漏れる。
「それ以上しゃべってみなさい。そのべらべらと回る口を二度と利けなくしてやるわよ」
どすの効いた声で秀麗が言う。
「へぇ、お前に出来るわけ?」
はっと清雅は息を吐く。秀麗に殴られたみぞおちがズキズキする。こいつ絶対女じゃないだろ。何処にこんな力がある。
「お前なんか女と認めない」
吐き捨てるように言葉をぶつける。しかし秀麗は平気な顔で
「アリガトウ。褒め言葉と受け取っておくわ」
嫌味をたっぷり込めて返してやる。アリガトウが棒読みなのは気にしてはいけない。
「けど清雅、声が震えてるわよ。情けないわね、これぐらいのことで」
秀麗はなおもまくし立てるように言葉を続ける。
「暫くそうしてなさい」
清雅は事実その通り体が痺れてうまく動けなかった。呼吸すらやっと出来ている状態だ。人体急所の一つ水月に一寸違わず拳が入ったために。秀麗は清雅の横を悠然と歩く。そして最後に一度だけ清雅が動かないのを振り返って確認して再び早足になる。
「調子に乗りやがって…」
だんだん小さくなる秀麗の後姿に清雅は石を投げつけてやりたい気持ちで一杯だったが動けるようになった頃にはとっくに秀麗の姿は見えなくなっていた。


「もう、何だってあんなところで清雅に出くわすのよ。やっぱり背後霊か疫病神じゃないの?」
ぶつぶつと秀麗は独り言を呟きながら歩いていたらいつの間にか厠を通り過ぎていた。数歩戻って中に入ろうとする。と、なにやら入り口に張り紙がしてある。
「本日、終日改装につき使用不可」
さーっと秀麗の額を汗が伝う。ここまでどれだけ時間がかかったことか。私が何か悪いことでもしたっていうの?ぎりぎりと拳を握り締め秀麗はびりびりと周囲の空気を振動させながら、込み上げてくる怒りを沈めようとする。が、無理だった。きっと後宮の女官たちにもその声は届いただろう。
「こんちくしょぉおおおおおおお!!!!」
誰が紅家直系・長姫がそのような言葉を叫んでいると思うだろう。しかし事実は事実。秀麗の怒りも虚しく冷酷にも使用不可を告げる張り紙が厠の前で風にひらひらはためくばかりであった。



→→後書き
何だろう。どういう経緯で厠ネタを思いついたんだろう。自分でもよく覚えてません。「ヒロインはトイレなんて行かないのよ!」とかいう人、ごめんなさい。失礼しました。でも実際女性用の厠って仕事場の近くには無かったんじゃないかと思うんですよ。実際お城の中で働いている女官たちって後宮の辺りにしかいないんじゃないかと思うんです。女子高が共学になって男子トイレが1階にしかない、という事態を耳にしたこともあります。先生は男性もいたんでしょうけどね。だから一応1階にあったんだろうけど。なんかトイレネタでこんな夢壊すような小説書いていいんだろうか。本気で心配になってきた…;


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