初めて出会った時、彼女の瞳に僕は見惚れた。
何処までも高みを目指すその眼差しがとても綺麗だった。
彼女は朝廷の中であらゆる非難の視線や罵倒に晒されながらもその瞳を曇らせることなく、
また茶州州牧として赴いた茶州の地からは更に瞳を輝かせて実に魅力的な大人びた姿で戻ってきた。
その時、彼女のことを同期の仕事仲間としてではなく、
一人の女性として想っている自分に漸(ようや)く気付いたのだった。


それは小さな恋の始まりで


悪鬼巣窟と言われる吏部で働く碧珀明は吏部尚書が働かないせいで大量に滞っている仕事を片付けるため今日も残業していた。けれど、流石に徹夜続きでは身が持たないと思い、少し仮眠室に行って数刻休もうとふらふらとした足取りで吏部を出た。夜の闇は深く、手に持った燭台の明かりも頼りなく風に揺れて消えてしまいそうだ。先まで照らせないので夜中に迷子にでもなったら朝になるまで諦めた方がいいくらいだろう。しかし、珀明は幸い方向感覚には優れていたので迷うことなく仮眠室の手前の曲がり角までやってきた。漸(ようや)くたどり着いた、とほっと一息。最後の角を曲がる。すると、仮眠室から少しばかり灯りが漏れているのに気付いた。
(こんな時間に仮眠室で誰が何を?)
珀明はふと疑問に思ったが、如何せん疲労感が勝っていたのでそのまま足を止めることなく仮眠室の中へ入る。すると、何処かで見た顔の者が寝台の上ですやすや眠っている。
(灯りをつけっぱなしにして寝るか、普通…)
呆れた珀明はその者が眠る寝台へ近づいて手元の燭台でさらに顔をハッキリと照らし出す。やはり秀麗だ。珀明と時を同じくして国試に合格、しかも珀明を差し置いて探花及第を果たした初の女性官吏。先日の冗官騒ぎでは実にハラハラさせられた。
「どこでもいいわ。何処でもやることは同じだもの」
彼女は進士の時期を終え、配属が発表される直前、そう口にしていた。吏部というはっきりとした配属先を望んだ自分とは全く違う答えだったので、この言葉は珀明の記憶に鮮やかに残っていた。それだから早々にも吏部や戸部からの誘いを受けて難を逃れるだろうと思っていた。なのに期日直前になっても彼女はそんな動きを全く見せなかった。珀明は焦った。いくら彼女が有能であるといっても(彼女の実力は僕が保障する)、動かなければ切り捨てられるのは確実だった。それに人事を司るのは自分が配属されている吏部。間接的にせよ、自分が彼女を切り捨てる仕事に関わることになるだろうことに気付き、それだけは嫌だと心から拒絶した。結局彼女は無事首切りに合うことなく、この朝廷で今も働いているようだ。それを知ったとき、心から安堵した。もしも自分を差し置いて及第しておいて、朝廷から先に姿を消すようなことがあったら家に押しかけて叱咤してやるつもりだった。いや、それだけでは気が済まなかったかもしれない。


珀明は眠る秀麗の顔をじっくり眺める。初めて会った頃よりずっと顔つきが大人びて、こうして眠っている姿も解かれた漆黒の髪がその顔にかかり、艶(なま)めかしさを一層増している。仕事で心身共に疲れ切っていた筈の珀明でさえ、思わず手を伸ばして触れてみたい衝動に駆られた。
(はっ、僕は一体何を考えているんだ。秀麗と僕はただの同期以上朋友程度じゃないか)
珀明は思わず伸ばした手をさっと引っ込める。しかし、こんなに無防備にも寝ている秀麗の隣で果たして落ち着いて寝られるだろうか…。しかも何だかそれはそれでマズイ気がする。うちの吏部尚書にでも知れたら、一生仕事を自分に押しつけるかもしれない。秀麗の叔父である黎深の存在を思い出し、珀明はげっそりする。痩けた頬が更に痩けたように。
(どうしたものか…)
その時秀麗が寝返りを打ち、珀明のいる側に顔を向けてきた。秀麗が目を覚ましたかと一瞬焦った珀明はきょろきょろと辺りを見回し、しかし秀麗が眠っているのを確認して安堵する。
(何で…こんなドキドキしなければならないんだ!)


よくよく見れば秀麗は身につけている官服だけで眠っている。珀明は片付けてある布団を持ち出してきて秀麗にかけてやった。
「ん…、珀…」
すると秀麗が寝言で珀明の名前を呟いた。思わず珀明はドキッとする。そういえば、秀麗だけは自分のことを珀と呼ぶ、のだったと思いながら。そして、まじまじと秀麗の顔に見入ってしまった。視線を秀麗から離すことができない。
(こいつ、一体どんな夢見てるんだ?)
そう思った珀明はふと思いつき、秀麗に声をかけてみる。眠りが浅いと反応するかもしれない。
「秀麗。お前、何してるんだ」
ぴくりと秀麗の身体が僅かに動く。すぐに返事が返ってきた。
「やだ、珀ったら。見れば分かるじゃない。あなたがあんまり仕事熱心だからこうしてお弁当の差し入れに来たんでしょ」
何故か楽しそうな声で秀麗は言う。珀明は秀麗が夢の中でまで自分のために弁当を作ってくれていることを嬉しく思った。
「せっかくお前が作ったのなら、食ってやらんこともない」
まるで現実に会話しているように珀明は言う。けれどやはりいつも通りの口調になってしまう。秀麗に対してぶっきらぼうに応えている自分にある時気付いたのだが、それ以後気をつけようにも何故かなかなか直らない。けれど秀麗はそんな自分にも笑顔で応じてくれる。まるで自分の気持ちなどお見通しだ、というように。そんな秀麗が愛おしかった。心が通じ合っているような気もした。珀明はここで沸き上がってきた感情を思わず口に出してしまった。


「秀麗……僕はお前のことが好きかも知れない」
その声はとても優しく、けれどとても小さかった。しかし、秀麗の耳元で囁いたのでどうやら眠っている秀麗の耳にも届いたようだ。
「…珀、私も好きよ」
一瞬の間の後、秀麗はそう言う。けれどその秀麗の声は恋愛感情から出たものではない、と珀明は気付いてしまった。彼女は自分のことを大切な朋友として見ているのだ。一人の男、としてではなく。それはそれで秀麗らしい、とも珀明は思った。けれど一抹の淋しさを感じる。自分は彼女に振り向いて欲しいと思っているのだ。一人の男として見て欲しい、と。彼女が自分に厳しいことはよく知っている。彼女は誰とも結婚するつもりはないのではないだろうか、とも最近気付いた。
それでもー。いつか彼女が自分のことをそういう風に見てくれる日が訪れて欲しい、と思う。碧家では紅家の長姫には釣り合わないかも知れない。釣り合うのは王か藍家だろう。それでも自分は敬愛する李絳攸様のように出世して、紅家長姫と婚姻するに足るほどまでになるつもりでいる。そうすれば、きっと。
今は彼女は自分の言葉の意味を知らない。愛しているという意味の"好き"。今はまだ一人の男友達としてでもいい。けれど、その時がきたら、その意味に気付いてこの手をとって欲しい。
いつもありのままの自然な彼女が大好きだ。どこまでもどこまでも夢を追い続ける彼女の姿は何よりも美しい。絶世の美女よりも美しく思えるその姿。美しいものについての鑑定眼をもつ碧家の一人として見ても、彼女はどんな宝よりも美しいと今ならハッキリと言える。内面からあふれ出す彼女の魅力がこんなにも美しさを引き出している例は他に無い。
また、彼女の美しさに魅せられてしまった自分は、気付いていなかった頃にはもう戻れない。いつこの恋が始まったのかは分からない。それでもこの想いはどんどん膨らんでいく。きっとそれは小さな恋の始まりで。


珀明はそっと手を伸ばして秀麗の髪をとり、口付ける。今はまだ何も出来ない。けれどー。ふっと秀麗が灯した燭台の灯りに息を吹きかけた後、珀明は自分の持ってきた燭台を手に仮眠室を後にする。結局一睡もしなかったけれど、それでも珀明の瞳には決意の光が輝き、足取りを確かに再び吏部へ戻り、山積みにされた大量の仕事を手際よく片付けていったのであった。




→→後書き
秀麗と珀明で初めて書いてみました。なんだかんだ言って珀明は秀麗のことが好きなんじゃないかと思いますよ。 今のところその気持ちに気付いてないかも知れないですが。とりあえず気付いてしまった設定で書いてみました。 珀明はどんな状況であろうと秀麗に手を出したりはしないんだろうなーとか思ったり。理性で抑える感じ。 秀麗が珀と呼んでるのが結構気になるんですけど。しかもこの二人「珀」「秀麗」って呼び合ってるし。何かいいですね♪


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