ことり、と微かに音が鳴り、空気が僅かに動くのを感じた秀麗は読んでいた書物からがばっと顔を上げ振りかえる。
「清雅、また仕事の邪魔しに来たわけ?」
最近毎日のように清雅が何も言わずに勝手に部屋に入ってきては邪魔をしていくので、秀麗の五感はかなり敏感になっていた。だから、微かな物音や微妙な空気の流れを直ぐさま感じ取り侵入者の存在にすぐに気付くことが出来た。清雅は今朝もちょっかいを出しにきたばかりだった。再び現れて何の用だ、と秀麗は内心悪態をつき、そして顔を確認する。秀麗の鋭い視線の先には確かに秀麗の予想通りの人物、覆面監察御史・陸清雅がいた。
「仕事だ」
清雅は短くそう秀麗に告げる。そこで秀麗は自分の考えの浅さに気付き恥じる。清雅がわざわざ一日に二度も来るなど大事な用件に決まっている。
「長官がお呼びだ」
それだけ言うと、清雅は踵を返し秀麗が腰を上げるよりも早く部屋から出て行こうとする。
「ちょっと待ってよ、清雅」
その言葉に清雅は一度足を止め、振り返り冷たい視線を秀麗に送ると
「ぐずぐずするな」
と言い、今度こそ振り返ることなく部屋を出て行った。秀麗は慌てて椅子から立ち上がり清雅の背を追う。しかし、なかなか追いつかない。


鬼の霍乱(かくらん)


長官の待つ部屋の前で清雅は待っていた。秀麗が近づくも、気付かなかったのかぼんやりと突っ立っている。
「セーガ?」
秀麗が清雅の顔を覗き込むと、清雅ははっと気付き何事も無かったかのように素早く扉を開き
「入れ」
と短く言う。そして、二人は並んで長官の前に立つ。
「紅秀麗、清雅。お前たち二人で仕事をしろ」
それを聞いた二人はぴくりと身体を動かす。誰が好き好んでこんな奴と仕事をするものか、と二人とも思ったに違いない。しかし、長官の命令は絶対だ。二人は文句を口にすることなく、黙って長官から仕事内容の説明を受ける。そして、
「以上だ」
と御史台長官・葵皇毅に言われ、部屋を出るように促されたので二人同時に部屋を後にする。今日は珍しく秀麗だけ先に部屋を出るということはなかった。そのことに秀麗は少し驚く。
(いつもなら清雅が裏で動いているけど。今回は二人協力してやれってことなのかしら…)
秀麗は扉を閉めながらそんなことを考えていた。ふと、清雅に目を遣ると何故か清雅の瞳が潤んでいる。心なしか頬も赤い。そういえば先ほどから口数が少なかった気がする。これはもしかして、もしかしなくても風邪?


「あなた、熱があるんじゃないの」
秀麗はおもむろに清雅の頭に手を伸ばし、長い前髪を掻き上げて現れた額に自分のそれをくっつける。秀麗のそれが実にさり気ない動作だったために清雅は避けることができなかった。誰彼構わずいつもこういうことをやっているのだろうか。清雅はそう思うと何故か無性に腹が立った。
「お前、素でこういうことをやるな」
秀麗の頭をがしっと掴んで自分の額から引きはがし、真剣な眼差しで見つめ、言う。しかも何故か怒ったような声だ。しかし、その声にはいつものような鋭さがない。熱に浮かされているのかしら、と秀麗は思う。
「やっぱり熱があるわね。風邪引き以外の何者でもないわ。これじゃ仕事もろくに出来ないわ。今日は早く帰りなさい」
清雅の額は自分のそれより大分熱かった。しかしこの時点では秀麗は清雅のことを心配するという気持ちよりも、邪魔者が居なくなって清々する、という気持ちで一杯だった。やっぱり清雅と仕事を協力してやるなんて無理だ、と。
「嫌だ」
しかし、清雅は秀麗の提案を拒否した。
「何でよ」
呆れた声で秀麗は尋ねる。
「何でも」
清雅は尤もな理由を言わない。清雅らしくもない。こうなったら梃子(てこ)でも動かない、といった風だ。
「陸家の軒(くるま)でも出してもらって帰ったらどう? 家人の方に看てもらった方が気が楽でしょ」
秀麗はそれでも清雅に家に帰るよう提案する。要するに邪魔だからさっさと帰れ、とは流石に言わなかったが。
「お前がいい」
それでも清雅は拒絶の意志を意外な言葉で表した。"お前の方がいい"ではなく"お前がいい"とは。あまりに直球で来たので思わず秀麗は清雅の言葉にドキッとしてしまった。今日は一体どうしたというのだろう。まるで別人だ。
「仕方ないわね」
一応仮にも病人なのだから望むようにしてやるというのが筋というものだろう。秀麗は説得を諦めた。
「それじゃあ、仮眠室まで歩けるかしら。生憎ここにはタンタンもいないし。私じゃあなたを運べないから」
そう言って秀麗は清雅に肩を貸してやって仮眠室まで連れて行った。思ったより清雅の身体は熱をもっていた。


秀麗は素早く清雅を寝台に寝かしつけると、桶に水を汲んできて手拭いを濡らして絞り、清雅の額に乗せてやる。すると清雅はふっと顔を緩ませた。相当熱があって苦しいのだろう。清雅の額に乗せた手拭いはすぐに温もってくる。秀麗はこまめに手拭いを桶の水に浸しては絞り、を繰り返した。そして、清雅の熱が桶の水に移り、すっかり温くなってしまったので、
「水を汲んでくるわね」
秀麗はそっと清雅に声を掛けると桶を手にし、椅子から腰を上げようとする。が。
「行くな」
清雅はそう言って秀麗の衣をしっかりと掴んで放さない。これでは身動きが出来ない。
「すぐに戻ってくるから」
風邪のせいで心身共に弱り切っているのだろう。秀麗は清雅を安心させようと微笑んでそう言う。
「嫌だ」
それでも清雅は秀麗の衣を掴む手を放さなかった。まるで子供みたい、と秀麗は心の中で呟く。
「それじゃあここにいるわ」
秀麗は諦めて再び寝台の横に置いた椅子に上げかけた腰を下ろし、桶を床に置く。
「少し眠るといいわ。数刻も眠れば熱も下がるでしょう」
ずれた布団をかけ直し秀麗は清雅を寝かしつけようとする。
「寝たくない」
清雅は拗ねた子供みたいな目で秀麗に訴えかける。本当に今日の清雅はおかしい。…素直というか子供っぽいというか。
「それじゃあ何か欲しいものでもある?」
果物か、水か、はたまた本か。病気になろうとも仕事をやりそうな清雅なら書物がぴったりかもしれない。身体に障りそうだが。


清雅はとろんとした目で天井を眺めてぽつりと呟く。
「お前の二胡が…聴きたい」
それを聞いて秀麗はきょとんとする。病人が何を言い出すかと思えば。流石にそれは身体に障りがあるだろうと秀麗は心配した。
「五月蠅いと、余計気分悪くなるわよ」
丁寧に弾いても風邪を引いてる者に聞かせるには二胡は良くない。
「それでもいい」
清雅の我が儘に今日一日くらい付き合ってやるのも悪くないだろう。
「ホントに仕方ないわね…」
秀麗は腰を上げ、二胡を取りに行く。今度は清雅は止めなかった。たとえ、秀麗が一時自分の傍を離れてしまう淋しさを感じることになっても構わないほど、秀麗の二胡が聴きたかったのだろう。
「何を弾けばいいかしら」
二胡を手に戻ってきた秀麗は清雅に確認する。清雅は虚ろな目で窓から外を眺め、言う。
「葬送歌」
何という選曲だろう。病気の時に葬送歌だなんて、不吉だと秀麗は思った。それでも、清雅は目を瞑り、秀麗が弾き出すのを待っているようだった。秀麗は息を吸い、心を落ち着ける。この曲は悲しい思い出の象徴だったから。静かなもの悲しい旋律が響き出す。秀麗は丁寧に丁寧に腕を左右に動かし、二胡を奏でる。この腕が動かなくなる程、二胡を弾き続けた日々を思い返しながら。秀麗の心と二胡は繋がっていて、音色にもそれが確実に表れていた。秀麗がふと清雅に目を向けると、清雅の目尻から光るものが流れ出ているのに気付いた。それを見て秀麗は驚く。
(あの清雅が…泣いてる?)
清雅にとってこの曲は何なのだろうと、ふと秀麗の心に過(よ)ぎる。清雅は一体いつ何処でこの曲を聴いたのだろうか。何故か分からないがそのことを思うと、無性に哀しかった。心が冷えていく感覚。絶望感と恐れに支配されていく心。


それでも二胡を引く手は止めなかった秀麗は何かが動く気配を感じ、はっとする。見れば清雅が身体を起こして外を眺めていた。清雅の頬の赤みは大分ひいていた。熱が下がってきたのだろう。しかし、それでも清雅の顔は青ざめていた。それが風邪のためではないことを秀麗は悟る。思わず二胡を引く手を止める。二胡の音が途切れたのに気付いた清雅はゆっくりと秀麗の方を振りかえる。秀麗を見つめているのに、どこか遠くを見つめているような哀しげな瞳。横に流れた二筋の涙の、乾いた跡。清雅が口をゆっくりと開いて、すぐに閉じた。何かを言おうとして、止めたように。それでも秀麗は清雅の声を聴いたような気がする。幼い清雅の、声。私に、一体何が出来るだろう。私に、一体清雅の何が分かるというのだろう。
何故か哀しくて秀麗の目から涙が溢れ出す。二胡を床に置いて、両手で顔を覆う。手の隙間から嗚咽が漏れる。ゆっくりと、清雅の手が伸びてきて優しい手つきで秀麗の手を顔からどける。そして、確かめるように顔の輪郭をなぞる。何度も、何度も。子供が隠した宝物を時々取り出しては確認するように。繰り返す。


秀麗の涙がようやく収まった頃、清雅の手が離れる。清雅は涙に濡れた手をぼんやり眺める。
「何で…泣いた?」
それは秀麗に尋ねているようでもあったし、自問しているようでもあった。その問いの答えは二人の心の奥深くにある。
「どうしてかしらね」
落ち着いた秀麗がくすりと笑う。その答えを自分は知っているけれど、清雅も分かっているのではないかと思う。それはきっと言う必要がないのだ。清雅は手を下ろし、秀麗の顔を真っ直ぐ見つめる。その顔は秀麗が今までで見た中で一番自然な清雅の顔だった。感情を押し隠さない、少し淋しげな顔。清雅はこんな顔もするのだ。秀麗は清雅に微笑みかける。"もう、大丈夫よ"と母親が迷子の子供を見つけて抱きしめる時のような、優しい笑顔で。清雅は少し首を傾けて、それはそれは自然に微笑んだ。それは本当に嬉しそうで。
秀麗は清雅の額に手を伸ばす。もう一方の手を自分の額に当てて。
「熱、下がったわね」
秀麗はそう言うと、ゆっくりと立ち上がる。それから、ゆらゆら揺れる桶の水を見つめ、手を伸ばす。もう、これは必要ない。清雅に背を向け、仮眠室を出る。清雅は止めなかった。そして、秀麗が仮眠室に再び戻ってきた時には、清雅の姿はそこになかった。人が抜け出たままの形の布団だけが寝台の上に残されている。
(ちゃんと家に帰ったのかしら…)
清雅の熱が残る布団を秀麗は畳み、片付ける。そして、二胡を手に取り部屋を出て、静かに扉を閉めた。




→→後書き
あの…非常に清雅らしくないかもですが、今回彼は風邪引きさんなので許して下さい。文句は頂いても返品します<え? お題の「子供みたいに繰り返す」。凄く良いお題でした!お題が生きてる…。当初の予定だと、もっと子供っぽくなる はずが意外と大人っぽくなった、みたいな?<意味分かんない 後先考えず書き進んでいく内に予想もつかない 展開になってしまうのは毎度のこと。もはや諦めてます。というか、それでいいよ!(開き直った)


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