最近、どうも妙な視線を感じる。
誰かにずっとつけられ、見張られているような、そんな類の視線だ。
秀麗はいきなりバッと振り返って、周囲をきょろきょろと見回すが周りには行き交う城下の人たちばかり。
(気のせい…かしら)
秀麗は顎に手を当てて考える。
が、考えても仕方ないと思ったのだろう。
手早く買い物を済ませ、早歩きで家に帰り着いた。


過ぎたるは猶及ばざるが如し


「ただいまー」
今日はいつもより早く帰ることが出来たので、まだ家には誰も帰ってきていなかった。秀麗は早速夕食の支度に取りかかる。トントントン、という軽快な包丁の音が響く。今日の秀麗はご機嫌だった。なぜなら、今日は月に一度の給料日だ。まだまだ下っ端官吏の為、微禄ではあるが秀麗一人分の給料があるだけで生活は大分違ってくる。麦ご飯ではなく白米を食べる日数も増えた。また、家計を上手くやりくりして、餃子やら焼売やらを大量に作ることも可能になった。但し、無駄にだだっ広い屋敷の手入れとなると、なかなかそうもいかないが…。
料理の下準備を終えた秀麗は、二人の帰りを何もしないで待つのも退屈だと思い、自分の部屋へ行き、書物を出して読み始めた。秀麗が読書を開始して四半時も経たない頃。がちゃん、と庖廚の方から物が落ちる音がした。秀麗は父様が帰ってきたのかしら? と本を閉じ、庖廚へ向かう。が、誰もいない。しかし、何か様子がおかしい。ぐるりと回って確認する。と、秀麗の足がある所で ぴたりと止まる。
「お饅頭が…無い?」


暫くして静蘭が帰ってきた。秀麗は挨拶もそこそこに静蘭の二の腕当たりの服を掴んで引っ張る。
「せぇ〜らぁん!!どぉ〜しよう」
いつもと様子が違う秀麗に静蘭は戸惑うも、心を落ち着かせ秀麗に尋ねる。
「…お嬢様、どうかなされたのですか?」
服を引っ張っている秀麗の手をそっと引きはがし、優しく下ろす。
「それがね、お饅頭が跡形もなく消えたのよっ」
静蘭を庖廚に案内し、饅頭を入れておいた蒸籠を指さす。蓋が開けられ、中は空っぽになっている。
「ここに確かに入れておいたのよ」
静蘭は残された蒸籠を確かめ、それから窓の辺りを隈無く探った。
「…これは、饅頭泥棒が入ったとしか思えませんね」
くるりと秀麗の方を振り返り、静蘭は溜息をつきつつそう言った。
「饅頭泥棒って…お饅頭なんか盗って一体どうするのよ」
秀麗は静蘭の言葉に目を見開き、それから首を捻った。
「さぁ…何でしょうね。それはともかく、お嬢様。戸締まりには気をつけて下さいね」
静蘭も首を傾げ、それから秀麗に向き直り、しっかりと秀麗に言って聞かせた。
「どうやら饅頭泥棒はここを昇って入ったようですから」
静蘭はもう一度振り返って窓の鍵を確かめてから、饅頭の代わりになるものを作るべく調理に取りかかった。


「ただいま」
秀麗と静蘭が夕食作りを終え、席に着いたところで邵可が帰ってきた。
「父様、お帰りなさい」
「お帰りなさいませ、旦那様」
二人は手に取りかけた箸を一旦置いて、邵可を迎える。
「おや、今日はお饅頭はないんだね」
邵可は食卓の上を覗き込んでからふとそんなことを口にした。
「え…えーっと、今日はちょっと」
秀麗は邵可に話すべきかどうか迷い、狼狽えた。
「実は今日饅頭泥棒が入ったようでして」
静蘭が横から助け船を出した。主である邵可にも話しておくというのが筋だろう。
「え? 何だって? 饅頭泥棒と今言ったかい」
邵可がピタリと動きを止め、静蘭を真剣な目で見つめた。
「え…えぇ。旦那様、何か心当たりが?」
静蘭は邵可の様子を不審に思い、尋ね返した。
「うーん。心当たりと言うほどでもないんだけどね。さっき宮城の中で饅頭を配っていた官吏を見かけたものだから」
邵可は細い目を更に細めて言った。
饅頭を配る官吏、など普通ではないだろう。おそらく邵可が見た者が犯人。
「宮城の中で、ですか…」
静蘭は顎に手を当て、呟いた。
「分かりました。明日その者に饅頭をもらった者がいないか探してみましょう」
「ごめんね、静蘭。お願いするわ」
秀麗は何とも言えない表情で静蘭を見つめ、それから机の上に並んだ料理に目を移して大きな溜息をついた。


翌朝―。
いつもなら秀麗は起きて麺やら餃子の皮やらを叩いて叩いて叩きまくってから出仕するはずだが、この日は違った。昨日の饅頭泥棒の件が気になってなかなか寝付けなかったのだ。流石にこの日課をする元気はなかった。朝食を作り、昼に軽く食べられる程度に昨夜の料理の残りと朝作ったものを少しだけ詰めてから、洗濯物を済ませ出仕した。


「あ、お嬢さん。おはよ」
部屋に入ると既に蘇芳が仕事を始めていた。
「おはよう、タンタン。今日は随分早いのね」
「あー、うん。ちょっと呼び出されて」
蘇芳はそう言って言葉を濁した。秀麗は疑問に思ったが、特に気にすることでもないだろうと自分も早速仕事に取りかかった。二人で黙々と仕事を進める。書物を繰る音だけが部屋に響く。
と、チラチラと時たま蘇芳が視線を送ってくるのに秀麗はふと気付いた。
「な…なぁに? タンタン」
手を止め、秀麗は蘇芳の方を見つめた。
「あー、えっと…」
蘇芳は頭を掻きつつ困った顔をした。
「何よ。言いたいことがあるならハッキリ言いなさいよ」
そう言われたら答えるしかない、と思った蘇芳はポツリポツリと話し始めた。
「実は―」


蘇芳の話によるとこういうことだ。
昨日、蘇芳宛に手紙が届いたらしい。差出人は不明。それは御史台の秀麗と蘇芳が使っているこの部屋に置かれていたようだ。
「榛蘇芳殿   明朝5時、門から入って右手にある橘の木の下にて待つ。一人で来られたし」
と。
気味が悪いので行かないことにしようかと思ったが、行かなかったら行かなかったで何か嫌なことが起こりそうな不幸の手紙にしか見えなかったので、一応行ってみたらしい。
蘇芳が指示通り、5時頃橘の木の下へ行くと、上から声が降ってきた。
「榛蘇芳か」
大方誰か分からないように口の周りに布でも巻いているのだろう。それはくぐもった声だった。
「そうだけど。あのさー、人呼び出しておいて顔くらい見せてくれてもいいんじゃない?」
至極真っ当な意見を蘇芳は述べたが、木の上の人物に完璧に無視された。
「今後、紅秀麗と一切話をするな」
「…は?」
「もし万が一話をしたら―そうだな、一生結婚出来なくしてやる」
「あの〜」
「分かったな。紅秀麗とは話をするな」
ガサガサという音がしたかと思うと、何者かが木の上から飛び降り、走り去るのが見えた。
取り残された蘇芳は何者かが降りるときに落としていった青い蜜柑を拾い上げてから呟いた。
「お嬢さんと話したらナニが起こるわけ…?」


話を聞き終えた秀麗はガタッと椅子から立ち上がり、机に手をついて蘇芳に詰め寄った。
「何で私と話しちゃったのよっ?!」
「何でって言われても…お嬢さんに話した方がいいんじゃないかと思って」
蘇芳は対照的にのんびりと構えている。
「そういうことじゃないでしょ? タンタンが結婚出来なくなるかもしれないじゃない」
どうやら秀麗は真剣に蘇芳の身の振り方について考えてくれたらしい。蘇芳はそれがちょっぴり嬉しくもあった。
「結婚って…別にどうでもいいし」
けれど、父親に言われて秀麗に求婚しに行ったくらいだ。彼がそこまで将来設計を考えているはずもなかろう。
「また、そんなこと言って! タンタンの"イイ人"がもし出来たらどうするのよ?」
そんな蘇芳を嗜めるように秀麗は怒った。別に蘇芳が結婚するかしないか、それは彼次第だ。でも、もし万一彼が結婚したいと思ったときに自分のせいで結婚出来ないということになったということを考えたら、何だか申し訳ない気持ちで一杯だ。
「だってさぁ、第一どうやって結婚出来なくするわけ? 呪いとか?」
蘇芳は至極真面目に言った。怪しげな木の上の人物が言った言葉を素直に信じる方がおかしいと思う。
「…そ、それもそうね」
はたと蘇芳に言われて気付いた秀麗はようやく腰を下ろした。会話が途切れる。


「…けど、一体誰なのかしらね。タンタンを呼び出した人って」
二人が仕事を再開し、暫くしてから口を開いた秀麗はこう言った。
「あんた、やっぱり鈍いよね」
書物から顔を上げて、パチンと秀麗の鼻を弾いて蘇芳は言った。
「どう考えてもあんたを好きな奴がやってるとしか思えないジャン」
「へっ?」
きょとんとした秀麗を見てますます蘇芳は呆れた顔になり、大きく溜息をついた。
「だって、要するに好きな女の子が別の男と話してるのが嫌ってことでしょ」
「そ、そうなの?」
何故か"好き"という蘇芳の言葉に思わずドキリとしてしまった秀麗はドギマギしながら尋ねる。
「そうもんなの」
蘇芳は完全に仕事から手を離し頬杖をついた。このお嬢さんの鈍感っぷりもここまでひどいと何故か無性に悲しくなってくる。
「でも、そんな人知らない…あっ」
「どしたの?」
突然思い当たることがあったように秀麗が思いっきり顔を上げた。
「実はね―」
秀麗は昨日自宅に入った饅頭泥棒の話をした。勿論邵可が見たという饅頭を配る男の話も。
蘇芳は話を聞き終えた後にゆっくりと言った。
「饅頭泥棒と今朝会った奴は同じ奴だと思う」
「う…何だか気味が悪いわ」
秀麗はぞわりと背中を這い上がる気味悪さに身をすくめた。
「とにかく、気をつけた方がいいと思う。あんたんとこの家人も一応調べてるんだろうけどさ」
そんな秀麗を眺めて、のんびりとした調子で蘇芳は言った。お嬢さんをあまり深刻にさせても逆効果だろう。
「えぇ。有り難う」
二人はそれから一切その男に関する話はせず、黙々と仕事を続けた。


いつもの如くふらりと部屋に入ってきて勝手に秀麗の弁当を開けた清雅がその日の弁当について感想を述べた。
「今日はやけに量が少ないな」
ちらりと秀麗は清雅を見遣り、視線を再び書物に戻した。
「それに、昨日の残り物が入っているだろう?」
清雅は料理の一つを摘み上げ、口に含み味わったところでさらにこう言った。
「文句があるなら食べないで頂戴」
視線は書物に向けたまま、秀麗はピシャリと言い放った。
「第一、それは"あんたのために"作った弁当じゃないんだから」
清雅はその言葉に眉を跳ね上げる。まぁ、中身を見ればそのことはなんとなく想像はついた。けれど、原因は分からない。
「いちいち口うるさい女だな。貧乏性は苦労するな」
秀麗の神経を逆撫でするように清雅は更に続ける。
「悪かったわね、貧乏で。どうでもいいからさっさと出て行って頂戴」
すると清雅はちゃんと秀麗の食べる分を残して、ぺろりと指先についた汁を舐めとると、部屋から大人しく出て行った。
「清雅って…何の用があって来たわけ?」
離れたところに避難していた蘇芳が恐る恐る近づいてきてこう言った。
「知らないわよ。人の弁当をつまみ食いするくらいしか能がないのよ」
苛ついた秀麗は蘇芳に八つ当たりする。蘇芳はもはや何も言えなかった。
(こ…怖い。こんなお嬢さんを"好き"っていう奴が分かんないネ)


「ちょっとこの書翰を届けに行ってくるわ」
昼休みに清雅が残した弁当を蘇芳と二人で分けて食べ、午後の仕事を始めて間もなく。秀麗はそう言い残して部屋から出て行った。
所詮下っ端は雑用を言いつけられる運命にある。行き先は工部だ。秀麗は手に一杯の書翰を持ち、廊下を歩いていた。すると―。
いきなり柱の影から飛び出してきた人物とぶつかってしまった。書翰がバラバラと廊下に散乱する。
「あ、スミマセン」
飛び出してきた人物は焦々と廊下に散乱した書翰を拾い始めた。
「有り難う」
秀麗は何気なさを装い、書翰を手早くかき集め、目の前にいきなり飛び出してきた人物の手からも素早く書翰を奪い取った。秀麗が運ぶ程度の書翰とはいえ、御史台から出される書翰であるからして機密性はそこそこ高い。関係のない者の手に渡ったら上から何と言われることか。
「それじゃあ」
秀麗はそそくさとその場を立ち去ろうとした。
「あのっ、ちょっと待って下さい」
すると、後ろから思いっきり服を掴まれた。
「何ですか?」
秀麗はにっこりと満面の"作り"笑顔で振り返る。この忙しい時に邪魔をしないでもらいたいものだ。
「ぼ…僕、あなたのことをずっと見てました」
その言葉に秀麗はピンときた。最近感じた視線も、饅頭泥棒も、タンタンを呼び出したのも、全てこの者の仕業だったと。
くるりと振り返り、向き直る。じっくり見れば冗官騒ぎの時に世話をした青年だった。名前は確か―
「荷明水さん…だったかしら?」
記憶の抽斗から朧気に残っている名前を引き出す。
「覚えて下さっていたんですか? 有り難う御座いますっ」
青年は秀麗の片手を掴んでブンブンと振った。一応これでも秀麗の方が5、6歳年下のハズだ。
「あの、明水さん? 用がないのならこれを届けに行きたいのだけど」
秀麗は辛うじて空いている手で抱え込んでいる書翰の山に目を向けて言った。
「あっ、スミマセン。でもちょっと話を聞いていただきたくて」


「僕、こうして秀麗さんのお陰でここに残ることが出来て。ホント助かりました。それで、最近は秀麗さんのことを思うと夜も眠れないくらいで。秀麗さんに会えない公休日なんかはもう家にいるのが苦痛で苦痛で」
秀麗はさりげなく少年の手を振り払って、一歩後ずさった。いや、何かもう面と向かって言われると気味悪さが倍増だ。
「あなた…昨日の晩、家(うち)に饅頭盗みに来たりした?」
秀麗はおそるおそる確認する。念のためだ。万が一ということもある。きっとこの青年ではないのだ、と思いたい。
「えぇ、それは僕です。秀麗さんのお饅頭がどうしても食べたくて。でも、紅姫派閥のみんなと話し合った結果、みんなで山分け するということになったので配ってたんです」
秀麗の希望的観測は見事に打ち砕かれた。それでも更に確認するように秀麗は尋ねる。
「…今朝方、タンタンを呼び出したのも?」
「勿論、僕に決まっているじゃないですか。大体、あのタヌキみたいな男は何ですか? あなたにいつも付いて回って。僕等なんか秀麗さんの顔を見ることすらなかなか叶わないっていうのに」
それは彼が御史裏行だから、とは秀麗は口にしなかった。言ったところで明水は話を聞いてくれない気がした。
「それより、秀麗さん。今夜一緒に飯店に行きませんか? 勿論お金は僕が出します」
親の金で官位を買ってもらい、結局冗官になってだらだらと過ごしていた輩だ。金ならいくらでもある、といった風だ。秀麗はそういう所が好きになれなかった。第一、どういう経緯でそうなるのか皆目見当が付かない。何故"私"が行かなくてはならないのか。
「悪いけど…」
「あぁ、気にしないで下さい。勿論僕だけじゃなく、紅姫派閥のみんなが一緒です」
秀麗の言葉を遮るように明水は言った。秀麗はそれにドン引きした。"紅姫派閥"なるものに入っている男たちを引き連れて飯店に入る自分の姿を思わず想像してしまった。男って…男って。
「流石に秀麗さんも男と二人っきりだなんて、緊張するでしょう?」
"勘違い"にもほどがある。問題はそこではない。
「断らないで下さいよ。みんなが悲しむじゃないですかぁ。それに僕がみんなに怒られますぅ」
泣きつくように明水は秀麗に思いっきりしがみついてきた。
「ちょっと…明水さんっ?!」
秀麗は焦った。こんな所を誰かに見られでもしたら何と言われるか。しかも、抱きつかれている相手は大して親しくもない者だ。


と、明水の身体が何者かに引き剥がされ、秀麗は解放された。
「おい、お前何ここで油売ってるんだ」
一息ついた秀麗が聞き覚えのある声に顔を上げると、冷ややかな目で清雅が見下ろしていた。
「…清雅」
よりによって天敵である清雅に助けられるなんて―秀麗は思わず笑ってしまった。
「何、へらへら笑ってるんだ。さっさとその書翰を届けてこい」
清雅は秀麗の腕の書翰を指さし、言った。慌てて秀麗はその場を立ち去り、工部へ向かう。
秀麗の姿を見送った清雅は、
「おい、お前」
先ほど秀麗にしがみついていた青年を腕を組んで見下ろした。何処までも冷ややかな双眸に明水は背筋を正して答える。
「はっ…はいっ。荷明水です」
「お前は紅秀麗の何だ」
清雅は明水を上から下までじっくり眺め回してからゆっくりと尋ねた。最近秀麗の周りに怪しい影が見えたのはこいつだったか―。荷明水といえば、確か冗官騒ぎの時に秀麗の所に何度も来ていた男だ。俺が相手をするまでもなかったから、どうやら俺のことは覚えていないらしいな。所詮は大した苦労もしたことのない、仕事に熱意もないただのボンボンか。
「えーっと、何と言いますか」
何と答えてよいのか困った明水は視線を彷徨わせた。
「はっきり答えろ」
清雅の瞳に正面から見据えられて明水は辛うじて引き出した答えを口にした。
「…冗官騒ぎの時に秀麗さんにお世話になった一人です」
正直なところ、これが一番的を射た答えだと思う。それ以上でも、それ以下でもなく。
「それだけか」
「はい」
元気よく明水は答えた。清雅は思わずこめかみに手を当てて次の言葉を口にした。
「たったそれだけの関係で紅秀麗にしがみついていたのか、お前は」
「…そうですけど?」
明水は不思議そうに清雅を見上げた。自分よりも年上の明水の馬鹿さ加減には清雅も閉口したくなったが、ハッキリ言ってやった。
「紅秀麗が上申書でも提出したら、即刻クビになるぞ」
「ひっ…」
クビという言葉に明水は身を竦ませた。顔が真っ青になっている。
(…今更気が付いたのか、この馬鹿は。馬鹿が多くて困る)
「まぁ、あいつもそんなことをいちいち提出している暇はないかもしれないがな」
清雅は明水に聞こえない程度の声でそっと呟いた。
「ともかく、うちの部下を勝手に連れ回さないでもらいたい」
パンっと明水の目の前で手を叩いて、放心ぎみの彼をこちらの世界に呼び戻して清雅はそう言った。
「…秀麗さんの上司なんですか?」
泣きそうになっていた明水は清雅の言葉を聞き、ポソリと呟いた。
「それ以外に何に見える」
清雅は冷ややかな視線を明水に向けてそれだけ言うと、秀麗の消えた方向へ去っていった。
(…あの人も秀麗さんのこと、好きなのかなぁ)
明水は清雅の背を見送りながら、何となくそんなことを思ったのだった。


「バーカ」
工部から頭を下げつつ出てきた秀麗の頭をポカリと叩いて清雅はそう言った。
「は? 何であんたこんなとこまでついてきてんのよ」
秀麗は振り返って清雅を思いっきり睨み付けた。
「誰がお前についていくか。俺もここに用があったんだよ」
「あっ、そう。それじゃ、どうぞお入りになって下さいませ。セー蛾サマ」
秀麗は嫌みったらしくそう言ってやったが、清雅は入ろうとしない。
「あんなろくでなしに引っかかって仕事遅らせるなんて最低だぜ?」
清雅は尊大な態度でそう言って冷ややかに嗤った。
「全部私が悪いって言うわけ?」
「当然だ。お前が女だから悪い」
「何よそれ」
「何度でも言ってやる。お前が女だから悪い」
ぐっと秀麗は拳を握りしめた。いくらなんでも、それは無いだろう。
「あんたたち男が悪いんでしょうが」
第一、今回私は何もやっていない。男の勝手な欲望に振り回されただけだ…と思う。
「誘惑する女の方が誘惑される男よりずっと悪い」
実に偉そうに清雅はそう言い放った。
「誘惑なんかしてないわよ」
清雅の言葉にピキリと青筋を立てて秀麗は言い返す。
「無自覚なのは更にたちが悪いな」
清雅は秀麗の顎を掴んで顔を寄せてきた。"そういう"ことをしようとする男が悪いんじゃない、と秀麗は思いっきり清雅の足を踏んづけてやった。
と、ここで工部の扉がギギギと開き、清雅はぱっと秀麗から離れた。
「あのぅ…何か声が聞こえてきて五月蠅いんですけど」
中から出てきた官吏は困った顔をして外にいた二人を交互に見つめた。
「申し訳ありません。うちの部下が騒いでいたものでして」
清雅はお得意の人の良さそうな笑顔を履いて頭を下げた。
「そうですか。それはそれは」
工部の官吏は清雅の表情に毒気を抜かれて思わず笑顔になった。
「あ、すみませんが取り次ぎを願えますか」
清雅は思い出したかのようにそう言い、二人で工部の中へ消えていった。
(〜〜っ。清雅の奴、言いたいことだけ言って逃げるなんて卑怯よ)
思いっきり工部の扉を睨み付けてから、秀麗は自分の部屋へ戻った。


「あ、おかえり」
蘇芳が顔を上げて秀麗を迎える。秀麗は蘇芳の顔をまじまじと見つめ、そういえば…と口を開いた。
「タンタン…張本人にさっき会ったわ」
蘇芳も被害者の一人だろう。事の次第を報告すべきというものだ。
「え…マジで? どんな奴だった?」
秀麗の言葉に蘇芳は興味津々の顔で尋ねる。
「冗官騒ぎの時に来てた荷明水って子いたでしょ」
うーんと秀麗は考えてから、蘇芳に一番分かりやすいだろう表現で伝えた。
「えーっと」
蘇芳は記憶から何とか荷明水という人物の名前と顔を引き出そうとするが、思い出せない。第一、お嬢さんが面倒を見ていた 冗官たちは数え切れない程いた。記憶力のよいお嬢さんなら覚えているかも知れないが、自分には無理だ。蘇芳は苦笑いをする。
「まぁ、ともかくふつーの子よ。逆に気味が悪いけど」
秀麗もそんな蘇芳の様子を見て、諦めたようだ。
「それで? 問題は解決したわけ?」
さして秀麗が気にしている風でもないので、蘇芳は問題が解決したのだろうと当たりをつけたのだが。
「さぁ…途中で清雅が来たから後のことは知らないのよ」
本当に知らないといった風に秀麗に返されて、蘇芳は驚いた。しかも清雅の名前が出てきたことも驚きだ。
「ふーん」
蘇芳は清雅がねぇ、と心の中で呟いた。何となくその後のことは想像が付く。だから、
「ま、多分これからは大丈夫だと思うよ」
とのんびりとした調子で言った。しかし、秀麗はそんな蘇芳の態度が理解できなかったらしい。
「何? その根拠のない自信は」
顔をしかめて蘇芳に詰め寄る。
「だって、ねぇ」
あの清雅だし…と視線を横に逸らしてからポソリと蘇芳は呟く。
「まぁ、ともかくこれからは気をつけるわ。また彼みたいな変な子が現れる可能性もなきにしもあらずだから」
自分に言い聞かせるように秀麗はそう言った。
「そうデスね」
蘇芳は適当に相づちを打った。本当に分かっているのだろうか、このお嬢さんは。隙が多すぎるし、こういうことにはとんと鈍い。一番気をつけるべき存在が案外身近にいることに気付いていないはずだ。"清雅"という存在に。
「ま、今回は"過ぎたるは猶及ばざるが如し"ってことで」
何はともあれ、問題は解決したはずだ。さしたる被害も出なかったことであるし。
「う…その通りね。何でああいう風に走っちゃうのかしらね、ホントに。男って分からないわ」
「あっ、勿論タンタンは違うわよ」
秀麗は蘇芳の言葉に苦笑いをし、そう言った。けれど、蘇芳の方は秀麗の言葉に苦笑いしたくなった。
(…俺にはあんたの方がずっと分かんないんですケド)


こうして、この事件は収束を迎える。


ちなみに、秀麗が家に帰ったところ、何故かげっそりした静蘭が次のようなことを述べた。
「お嬢様…紅姫派閥にはお気をつけ下さい」
それだけ言って静蘭は卓子に突っ伏した。
(…何かあったのかしら、静蘭)
実は静蘭も被害者の一人。家人であるということは知るものには知れているのだが、それが災いした。彼は今日一日中様々な被害にあっていた。着替えを盗まれたり、あらぬ噂を吹き込まれたりと。
悲しきことかな。我らが紅姫はそんなことなど露知らず、今日も今日とて手刀を生地に叩き込み、溜まりに溜まった某監察御史に対する憎しみを発散させるのであった。




→→後書き
というか、給料って毎月もらえてるわけじゃない気もするんですが…。年に4回くらい?どうなんでしょうね。
今回は荷明水くんという捏造キャラに登場していただきました。うん、何事もやり過ぎは良くないね。思いっきり秀麗にドン引きされちゃってるし。荷明水くんは身のこなしがかなり身軽ということで。静蘭もなかなか彼に翻弄されちゃったりと。しかも、何気に悪気があってやってるわけじゃないから秀麗に堂々と正直に話しちゃうっていう。なんかね(笑)。そういうキャラもいていいと思います。
あ、何気に清雅が秀麗助けちゃったりしてるのもいいと思いません?上司と部下という関係とか。


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