秀麗は清雅と一緒に取り組んでいるある案件に関して、最後の最後の詰めの準備をしていた。
(あとは捕縛のみ、か…)
そろそろ清雅から最終的な指示が来るはずだ。今回ばかりはあまりに事が大きすぎて、清雅を出し抜くことは出来ない。しかし、清雅の方も同様だ。秀麗がいなければ完遂出来ないのだ。


「…おい」
いきなり秀麗の後ろに現れた清雅は秀麗の頭をがしっと掴んでそのまま上向きに自分の方を向かせる。
「何よ」
秀麗は眉間に皺を寄せ、目の前にいる天敵を睨み付ける。いきなり頭を掴むなと言いたい。もっと違うやり方があるだろうに。と、視界一杯に黄色いものが広がった。
「…?」
清雅の腕を払いのけ、向き直って確かめる。そして、秀麗はそれをきちんと見ても"何か"理解できなかった。清雅が両手一杯に持ち、秀麗に差し出している黄色いそれは、進士式の時に劉輝から贈られたのと同じ花―福寿草だった。ご丁寧に根っこまでちゃっかり付いている。…一応、土は洗い流してあったが。


福寿草を貴方に


「何のつもり?」
秀麗は疑いの眼差しを清雅に向ける。ろくなものではないことだけは確かだ。何かを祝うつもりなど清雅にはさらさらないだろう。もし私が死んだらわざわざ福寿草を供えに来そうな男だ。それこそ、清雅に何かを祝われるようなことがあれば、それはこの世の終わりを意味する。
「お前、分からないのか」
清雅は本気で呆れた様子で秀麗を見る。探花及第を果たした者が、この程度の知識とは。
「福寿草は毒草だ」
ぴくり、と秀麗の肩が跳ね上がる。どうやら清雅の意図することを汲み取ったようだ。
「これをあたしに使わせるつもり?」
清雅の手から福寿草をもぎ取り、劉輝からもらった時とは全く正反対の態度でそれを無碍に扱う。こんなもの、と。
「自分の手を汚すのが嫌ってか。いい加減、自分の手を汚してみろよ」
清雅の言うことはあながち嘘ではなかった。御史台に拾われるための条件。秀麗自身がそれを呑んだのだ。拒否することなど、出来ない。秀麗は唇を噛み締める。覚悟を決めなければ。
「それで、これをどうしろと?」
けれど、積極的に行動することは出来ない。清雅にいいように使われるだけになったとしても。秀麗は尋ねる。
「根と茎を煎じて例の者に飲ませろ。どんな手を使っても良い」
色仕掛けだろうが何だろうが構わない。ま、色仕掛けなんてこいつには無理だろうがな、と清雅は心の中で呟く。
「まさか死なないわよね?」
清雅が否定するのを期待して秀麗は確認する。
「まだそんな甘いこと考えてるのか、秀麗ちゃん」
清雅が秀麗の顎を掴んで真っ正面から馬鹿にしたような顔で言う。それから、真剣な顔つきになり秀麗に甘く囁く。
「心の臓が止まる」
言った後、自分の口から出た言葉を楽しむように清雅はクックと笑う。秀麗は思わず清雅の顔から目を逸らす。息が詰まりそうだった。人の死というものを果たしてこんなに簡単に扱って良いものだろうか。そして、まさか自分がこの手で他人の命を奪う日が来るなんて思わなかった。
「じゃあな…そいつはお前に任せる」
清雅はそれだけ言い残して去っていった。決行の日時は3日後。出来ることならさっさと済ましてしまいたいものだが、最適の時期を鑑みてのことだ。そして、清雅が何も言わないということは、事前の打ち合わせ通り日時の変更はないということだ。
(私にこれを渡した、ということは捕縛ではなく殺せという指示が下りたのね)
一人残された秀麗ははーっと息を吐き出し、渡された福寿草を包んで自分の荷物に入れた。


秀麗は家に帰ると、普段使わずに仕舞い込んでいた鍋を取り出してきて、それに湯を沸かして花を摘み取った福寿草を中に入れる。いつもと違う鍋を使うのは、誤って邵可や静蘭の口に入らないよう、用心のためだ。幸いにも今日は二人とも帰りが遅くなると言っていた。二人にこんな姿を見られたら、きっと堪えきれず話してしまったかもしれない。
福寿草はしんなりとしてから湯の中で踊り始める。秀麗にはそれがまるで自分の姿のように見えた。結局、いいように動かされているだけなのだ。まだ自分の力で何も成していない…。そんな自分が馬鹿馬鹿しくなる。様々な思いが秀麗の心に浮かんでは消え、それを繰り返した。
もう十分に毒を煮出すことが出来ただろうと、秀麗は鍋を火から下ろし、冷ます。大方冷めたところで小瓶を取り出してきて、それに注ぐ。同じように何本か予備として用意する。しっかりと蓋をしめて、鍋を手早く洗い、元あった場所に戻す。
それから、小瓶を自分の部屋へ持っていき、目立たないところに隠し入れる。あの二人が勝手に部屋に入ってくることはないだろうと思われたが念のためだ。秀麗は最近身の回りのものに非常に気を遣うようになっていた。これも清雅に鍛えられているせいだ。
と、秀麗が小瓶を隠し入れ終えたところで誰かが帰ってきた気配がした。秀麗は笑顔を作り、ぱたぱたと走って迎えに出る。


「お嬢様、只今戻りました」
帰ってきたのは静蘭だった。どうやら予定より仕事が早めに終わったようだ。
「おかえりなさい」
秀麗はいつも以上の笑顔で出迎える。それを見た静蘭は
「お嬢様、何か嬉しいことでもあったのですか?」
と尋ねた。どうやら気付かなかったようである。実は最近静蘭は秀麗の表情に欺されっぱなしである。そのことに静蘭は気付いていない。
「そうなのよ! 今日、市でいいお魚が手に入ってねー」
秀麗は実に楽しそうに話し出す。庖廚(だいどころ)へ静蘭を連れて行き、魚を見せる。家に帰る前に市へ寄って買ってきたものだ。
「ちょうど今からご飯を作ろうと思っていたところだからちょっと待ってね」
そう言って、包丁やらまな板やらを取り出し調理にかかる。
「それでは私はお薬味を庭から取って参りますね」
静蘭はそんな秀麗の姿を微笑ましく眺め、庭へ出た。空は真っ赤に染まっていた。滲んだ血のように赤く。
(明日も晴れ…でしょうか?)
いつもは綺麗だと思う夕焼け空が、何故か静蘭には不吉に見えた。葱を手早く数本菜園の畝から引き抜き、その空を振り仰ぎ つつ静蘭は家に入った。再び庖廚へと戻る。が、静蘭は庖廚の中に入ったところで思わず足を止めた。俯いて魚に包丁を入れていた秀麗の後ろ姿が妙に艶めかしく感じた。いつも通り髪を結って、うなじが覗いているのだがそのうなじに思わず視線が止まる。静蘭は動揺する。長年秀麗と付き合ってきたが、何というかここまで女らしさを感じさせられたのは初めてだ。ゆっくりと近づいて秀麗に声を掛ける。
「お嬢様、お葱はここに置いておきますね」
卓子の上に葱を置く。秀麗はゆっくり顔を上げて静蘭を振り返る。
「有り難う」
いつものように何ら変わりない口調で言葉を紡ぐその唇も、何だか今は違って見えた。それはまるで先ほど見た夕焼け空のように紅い。
(駄目だ…。きっと今日は疲れているんだ)
静蘭は秀麗が再び調理に戻るのを見た後、天井を見上げ心の中で呟いたのだった。



―実は、例の人物を籠絡するために、秀麗は先日から姮娥楼の胡蝶の元へ通って色々と技を教えてもらっていた。男女間の行為をただ何となくしか分かっていなかった秀麗には刺激が強すぎたようで、顔を真っ赤にさせながら、それでも秀麗は技をものにしようと熱心に教わった。…勿論、胡蝶相手にであるからして実戦というわけにはいかなかったが。第一、秀麗には仕事の為に自分の貞操を簡単に捨てる気はさらさら無かった。


「胡蝶姐さんっ!!」
秀麗は姮娥楼へ息を切らせながら飛び込んだ。仕事を早めに済ませ、走ってきたのだ。
「おや、秀麗ちゃん。久しぶり」
出てきた胡蝶は仕事用の服に既に着替えていた。あまり遅くなると胡蝶の仕事に差し障りがある。秀麗は久々の再会の挨拶もそこそこに、急いで要件に入る。
「お願いがあるんです!」
秀麗は事の次第を説明した。胡蝶はそれを聞いてどうしたものかと戸惑う。妓楼で子供の頃から賃仕事をしていながら、秀麗はあまりにその行為について無知であるのは胡蝶があえてそれを教えなかったからだ。理由は色々あるのだが…。とうとうそういう年頃になってしまったのかねぇ…と心の中で呟く。しかし、秀麗が意中の男をものにするために知りたがっているとは到底見えなかった。―そうなると。
「秀麗ちゃん…もしかしてお仕事で?」
胡蝶はふと心に浮かんだことを口にする。
「えっと……そうです」
胡蝶に指摘されたことが図星だった秀麗は思わず動揺するが、すぐにそれを認めた。どうしても教えてもらわなくてはならない。 胡蝶の力が必要だった。
「全く。お役所っていうのは女を何だと思っているんだろうねぇ」
胡蝶は眉を寄せ、憤慨する。私の可愛い秀麗ちゃんに傷でもついたら、どうしてくれようか。その姿はかなり迫力がある。そして、秀麗が苦笑しているのに気付き、よしよしと頭を撫でる。
「まぁ、いいさ。この胡蝶がみっちり教えれば、どんな男でもイチコロだよ」
胡蝶は妖艶に笑い、秀麗を二階へ上げる。一部屋を秀麗の為に空けてやった。ここは元々そういう場所だ。
「時間は気にしなくて良いよ」
秀麗がしきりに外の様子を気にしているのに気付き、胡蝶は声をかける。日はもう暮れかけている。下もだんだん騒がしくなってきた。
「有り難う御座います」
ぺこり、と秀麗は頭を下げる。
「さてと、何から始めましょうかね…」
胡蝶はおもむろに秀麗の間近に寄る。胡蝶による男を籠絡させる技の伝授は斯(か)くして始まったのだった。



それから、秀麗は時間を見つけては胡蝶に教わりに行った。始めの頃はぎこちなかったが、今はもう十分というくらいに身に付いていた。花街一の妓女である胡蝶でさえ、ドキリとさせられることもあるくらいだった。そして、あと一回でお終いだと胡蝶は秀麗に言った。お仕事に行く前に寄って頂戴、と。秀麗は決行前日に胡蝶を訪れた。
「さあさ、上がって頂戴」
胡蝶はさっさと秀麗を二階に上げる。そして、秀麗を座らせると
「もう教えることはないよ」
と言った。
「えっ?!」
と、秀麗が驚きの声を上げる。
「今日は私の我が儘につきあっておくれ」
そう言って胡蝶は奥から箱を取り出してきた。中には化粧道具が詰まっている。
「秀麗ちゃん、私からの餞別(はなむけ)にお化粧してあげる」
胡蝶は秀麗の唇を指でなぞり、片目を瞑ってみせる。その艶めかしさに同性の秀麗でさえ思わずドキドキしてしまった。ここ数日、胡蝶に色々教わっているときの様子を見ると耐性がついたかと思われたが、それに関しては全く違ったようだ。
「お願いします」
秀麗はにっこりと笑って胡蝶の申し出を受けた。胡蝶は器用に手を動かし、秀麗の顔を作り上げていく。隅々まで神経を行き届かせ、念入りに化粧をしていく。仕上げに粉をはたき、紅を引く。
「さぁ、出来た」
胡蝶は秀麗に手鏡を差し出す。そこで秀麗は鏡の中の自分に驚愕することになる。まるで別人だ。
「これ…本当に私?」
秀麗の口から言葉が漏れる。胡蝶はその言葉を聞き、嬉しそうにする。そして、自分でもその完成度に満足したようである。
「秀麗ちゃんもこういうお化粧が似合うようになったね」
まるで娘か妹のように育ててきた娘(こ)の成長を胡蝶は感じる。
そして、その後は
「そろそろ行かないと」
と、秀麗が腰を上げるまで何気ない会話を二人で楽しんだ。その姿は本当の姉妹のようだった。その美貌も、その心根の強さも。


「けど、気をつけるんだよ。教えた通りにして、決して男に主導権を渡さないこと」
姮娥楼の入り口の前で胡蝶は秀麗を見送り、もう一度言っておこうと思っていたことを口にする。
「はい」
それを聞いて秀麗は頷く。
「それから…」
胡蝶は秀麗の耳に囁きかけるようにする。それを聞いた秀麗は、一瞬目を見開き、そして胡蝶の顔を見て、こくりと頷いたのだった。
(…やっぱり、胡蝶姐さんには敵わない)



姮娥楼から出て、秀麗はそのまま出仕する。誰にも見られないよう、夜中に出立することになっていたが、出発の時刻よりも前に余裕をもって着きたかったからだ。御史台にある秀麗の部屋に行くと、清雅が待っていた。壁にもたれて立ったまま仮眠していた清雅は秀麗の気配に気付き、目を覚ます。ゆっくりと秀麗の方に顔を向けた清雅の動きが止まる。
「…お前、本当に紅秀麗か?」
清雅は目の前に現れた女が普段の秀麗とはあまりに違いすぎて、思わず確認してしまった。寝ぼけて見間違えたわけでもない。女は化けるというのは、まさにこのことだ。十三姫の身代わりになった時の彼女など、この今清雅の目の前に居る女には到底及びもしない。どんなに理性的な男でも、今の彼女に言い寄られたら歯止めが利かず、溺れることになるだろう。清雅は一度目を閉じ、もう一度開いてから仕事の話に入る。
「例のものはちゃんと持ってきただろうな」
こうして清雅は毒のことを確認する。
「えぇ」
秀麗は袷(あわせ)から小瓶を取り出してちらりと清雅に見せる。秀麗が素直に自分の命令に従ったことに清雅は驚く。
―けれど、それも悪くない。
清雅は壁から背を離し、秀麗に近づく。そして、秀麗が自分で結い上げた髪から簪を引き抜く。漆黒の髪が扇のように広がる。
「髪、結い直させろ」
すっと髪に手を伸ばし、命令する。"お願い"ではない。これは上官命令だ。清雅は秀麗のやらんとしている事をきちんと汲んでいた。本気でその手を使う気になったのだと少し感心し、そして、それがあながち悪くない手段だと思った。
―この女なら、出来る。
錦上添花(きんじょうてんか)といこうではないか。それを自らの手でする価値は十分ある。
「…お願いするわ」
この際、目的のためには手段を選んではいられない。天敵に髪結いをさせるなど滑稽だが、その技術は認めざるを得ないのだ。失敗は許されない。最善を尽くして、事に当たる。―それが鉄則だ。
秀麗は椅子に腰を下ろし、清雅に身を任せる。


清雅は秀麗用に購入した御史台の備品の品々を取り出してきて準備にかかる。色とりどりの紐やら豪奢で煌びやかな簪の数々。女がいなければ、こんなものが御史台に置かれることはなかっただろう。流石に女装して捜査出来る監察史はこれまでいなかった。 けれど、今は秀麗がいる。紛(まご)う方なき女だ。じっくりと清雅は箱の中に詰められた装飾品から秀麗の為にいくつか選び出す。今の彼女に最高に似合う品々を。
それは清雅にとって目的を達するための手段でしかない。が、何故か甘美な陶酔に浸る感覚を覚える。秀麗の髪をただ梳くことも、髪を束に分けることも、全てに至高の喜びを感じた。また、この女がどうやってあの者を籠絡させるのか、とその姿を想像するだけで嗤いが込み上げてきた。他の男に言い寄る秀麗は実に卑(いや)しい女らしい、と。けれど、何の目的もなしにただ男に媚びを売る女は嫌いだが、目的のために手段を選ばず使える武器を最大使って男を惑わす女は悪くないとも思った。
吐き気がするくらい艶めかしく妖しい危なげな美女をこの手で作り上げる時間。髪結いに始まり、秀麗に有無を言わせず着付けまで手伝った。華やかすぎず、地味すぎない適当な衣装を選び出して秀麗に渡し、秀麗が着替え終えたところで裳の上から帯を器用に結んでやる。彼はこのように手慣れた手つきで全てをこなしていく。そして、清雅はこの時間を思う存分楽しんだ。全ての工程にじっくりと時間を費やして。出発までの時間も十分にあったから。


一方、秀麗は清雅の指先の感触を楽しむように、うっとりとした表情で椅子に腰掛けていた。時たま清雅の方をちらりと振り返り ざまに見上げ、それに気付いた清雅と目を合わせる。けれど清雅はすっと視線を逸らして再び髪結いに没頭する。くすり、と秀麗 は笑い再び顔を前に向ける。その繰り返し。
髪結いが終わと、"これに着替えろ"と清雅に言われ大人しく別の部屋へ行き着替えて再び清雅の待つ部屋へ戻る。清雅が帯を持って近づいてくると、秀麗の腰の周りに巻かれた裳に手を伸ばし押さえつつ帯を巻いていく。清雅が裳を押さえたのを確認して秀麗は裳から手を離す。そして、清雅が少し跪くような形で、少しもいやらしくない手つきで帯を結ぶのを秀麗は上から見下ろすように眺める。目的のためなら、憎んでいる相手に対してもここまで尽くせるのかと思うほどに念入りな清雅の姿を見てある意味感心した。


そして、いよいよ出発の時間になった。清雅と秀麗以外の監察御史2人を含めた4人で馬車に乗り込む。二人とも秀麗は初対面の者だった。相手は秀麗の事を知っていたようだが、何やら落ち着かない様子である。話に聞いていた姿と目の前にいる本人が余りに違ったからだ。清雅は秀麗に時々視線を送っている二人を一瞥し、足を組んで目的地まで一言も発さなかった。
目的の屋敷のそばに来ると、清雅と秀麗以外の二人は別行動になるらしく、先に馬車を降り出て行った。秀麗が屋敷を訪ねるのは夜が明けてからだ。真夜中に訪ねてくる女など怪しすぎる。馬車は人目に付かないよう細い小路に止まる。見た目には眠っているように見えるが、実際には意識がある様子の秀麗をちらりと見てから、清雅は目を閉じ、腕を組んで夜が明けるのを待った。


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