いよいよ秀麗が馬車を降りる時が来た。清雅が先に降り、下から秀麗の腰を支え軽々と降ろす。馬車を降りた秀麗は屋敷の方を眺める。 「思う存分踊らせてこい」 後ろから清雅は声を掛ける。その声に秀麗は振り返る。 ―情欲に溺れさせ、そして止めに毒を盛る。最終的な目的は暗殺だ。男を籠絡させることなど、ただの手段でしかない。さあ、その身を汚し、そしてその手を汚し、殺してこい。綺麗事など二度と口に出来ない姿で俺の元へ戻ってこい。 「えぇ、勿論そのつもりよ」 秀麗は媚眼秋波(びがんしゅうは)といった目つきで清雅を見つめ、それから清雅に向かい実に妖艶に笑ったのだった。 秀麗は屋敷の前まで辿り着くと、門番にそろそろと近づいて声をかける。秀麗の方が背が低いので、自然に上目遣いになる。 「もし。かの名医、蒼公(そうこう)先生のお宅はこちらでしょうか」 秀麗は胸元をぎゅっと押さえつつ、擦れかけた声で話す。門番二人は目の前に突然現れた美女に驚き、続いて全身を上から下まで じっくりと眺めた後、 「ええ、どうぞお入り下さい」 あっさりと秀麗を中に通した。時刻はまだ早朝。よっぽどのこと以外、普通なら入れない時刻だが―。 「こちらです。後はそちらの者が案内致しますので…」 秀麗は絶世の微笑を浮かべ、顔を赤くしている門番二人に礼を言うと、するすると中へ入る。 (ここまでは問題ない。問題はここから…) 「こちらです」 下働きの者らしき娘が秀麗をある部屋の前まで案内し、お辞儀をして去っていく。すると、中から声が聞こえた。 「どうぞ、中へ」 思っていたよりも年若い男の声がした。そういえば蒼公に関する調査書にはそういう基本的な事が抜けていた。必要ないと思ったのか…。 「お邪魔致します」 秀麗は扉をゆっくりと開き中へ入る。中には長身のさっぱりとした印象の男が椅子に座っていた。結構細身で顔もつるりとして綺麗だ。優男…と言ってもいいような雰囲気だ。このために蒼公に診てもらいたいという若い娘が押しかけているのではないか、と秀麗は思う。 「こんな早い時分にどうされましたか?」 蒼公はゆっくりと椅子から立ち上がり優雅な歩き方で秀麗の方へゆっくりと近づいてくる。 「実は…昨夜から胸が痛くてなりませんの。今日だけでなく、最近よく痛みますのよ」 秀麗は胸元を押さえ、顰(ひそみ)に皺を寄せる。その姿は落魚美人と謳(うた)われたかの西施(せいし)の如く。男女関わらず目が釘付けになってしまう程艶めかしい。そして、秀麗はもう一方の手で蒼公の胸にそっと手を伸ばす。 「それは…気に病まれましたでしょう。でも、大丈夫ですよ。さぁ、そちらへ横になって下さい」 その部屋には寝台がいくつか置いてあったが、蒼公は秀麗の手をとって、その内の一つに導き、寝かせる。それから、脈をとったり、瞳を見たり、様々なことをしてから、蒼公は首を傾げ秀麗を寝かしている寝台に腰掛けて、何かを料紙に書き付けている。 「他に何か気になることはありませんか?」 秀麗の顔を上から覗き込み蒼公が言った。 「え?」 蒼公の目があまりに真剣そのものだったので、秀麗は思わず身体を起こし、蒼公の隣に腰掛ける。 「何か…といいますと?」 「例えば…そうですね。血が…止まりにくいとか」 思い当たる節があった秀麗はその言葉に一瞬動きを止めるが、しかし、顔を上げ、にっこりと笑って言った。 「いいえ、そのようなことはありません」 「そうですか。それではいくつか薬草を出しておきますので、朝夕に煎じて飲んで下さい」 蒼公は料紙から顔を上げ、秀麗に優しく話しかけた。 「有り難う御座います」 こうして秀麗はぺこり、と頭を下げた。 「蒼公先生…先生の元には女性の方も沢山来られるのでしょう?」 ふっと思いついたように秀麗は蒼公に尋ねる。 「…そうですね」 蒼公は少し考えるようにしてから答えた。 「先生のような方が恋人だったらどんなにかいいと思いますのに」 そう言った秀麗は、しまったという顔をして顔を逸らし、頬を紅く染める。 「そんなことありませんよ。あなたは…美しい」 そう言って蒼公は秀麗の顔にそっと手を添え、自分の方を向かせる。二人の視線が合う。 「蒼公先生…」 秀麗はゆっくりと相手を押し倒す。蒼公はされるがまま。彼もまんざらではないようだ。そして、秀麗はするりと蒼公の上着の袷から手を中へ滑り込ませる。 ―ところが。滑り込ませた手が触れたものの感触に驚愕する。 「…まさか」 柔らかいふっくらとした饅頭のような感触の丘。 つまり―。蒼公は女だったのだ。 パクパクと秀麗は口を動かす。こんなことは清雅から聞いていない。蒼公は秀麗を突き放し、立ち上がる。 「あんた、官吏のお嬢ちゃんかい?」 ふふっと面白そうに笑って、秀麗の目の前にいる人物はさらりと衣服を脱いでみせる。見紛う事なき女性だ。口調も女性のそれになっている。 「…おっしゃる意味が分かりません」 官吏、という言葉がいきなり蒼公の口から出てきたのに秀麗は戸惑う。しかし、悟られてはならない。 「しらばっくれても無駄さ。事前に情報が入ってたのさ」 衣服を羽織りながら蒼公が言った。その口から出たのはとんでもない言葉だった。 (情報漏洩…?!まさか。御史台の中に裏切り者がいたのかしら。これは大問題ね) 「まさかたったの4人で乗り込んでくるとは…良い度胸だねぇ」 蒼公はぐるりと部屋の中を歩き回りながら言う。 「大人しくしてもらおうか」 そう言って彼女はパチンと指を鳴らす。そうすれば、屋敷の中に待機している有象無象の輩が出てくるはずだった。 ―が、しかし。物音一つしない。静まりかえっている。 「…どうやら私の勝ちのようですね」 秀麗は取り繕うことをやめ、真っ直ぐと相手を見つめる。清雅がやったのだ。今頃大勢を引き連れて屋敷をおさえている筈だ。 私には4人のみで動く、と話していたが実際には裏で動いていたのだ。 「あなたがしたことで、どれだけの人民の命が失われたと思いますか?」 瞳に何の感情も浮かべず秀麗は言葉を紡ぐ。その心はどこまでも冷え切っていた。 「私は何もしていないよ。…ただ、花を育てただけさ」 囁くように蒼公は言う。 そうやって言い逃れるつもりだろうか。けれど、そうはさせない。証拠は十分挙がっている。 「間接的に、なら殺していないと言えますか」 秀麗の声はどこまでも冷たい。それを聞いた蒼公がクックと嗤った。さも可笑しいといった風に。 「どうして。あなたは医者なのに…。医者は人を救う筈ではないのですか?」 そんな蒼公の姿を見て、秀麗は疑問の声を投げかける。すると、蒼公は目を見開き言った。 「それじゃあ、人を救おうとして殺してしまったらそれは人殺しになるんだろうか」 この言葉に秀麗は凍り付く。そうだ。医者は必ずしも全ての人を救えるわけではない。その無力さに嘆くこともあるのだ。 けれど―。 「それでも、悪戯に人を惑わすような薬、いえ、毒を広めることは許されません」 彼女は何を思って、それをやったのか。秀麗はそればかり考える。しかし、考えても考えても分からない。 「医者っていうのは…普通にやってたら金がいくらあっても足りないんだよ」 目の前にいる少女を見て、蒼公はふっと笑う。秀麗が何を考えているかお見通し、といった風に彼女はその言葉を自ら口にした。それを聞いた秀麗はかつて影月が言った言葉を思い返す。どうして官吏になったのか、という問いの答えを影月は次のように口にした。 "お金が沢山貰えるからです" "僕、本当はお医者になりたかったんです" "でも、お医者って貧乏なんです" "だから官吏になったんです" どうして、こんなことになってしまったのだろう、と思う。それはきっと誰にも分からない。蒼公自身もきっと分からないのだ。人を救うために人を殺すに等しい毒をばらまくという行為。秀麗には到底理解できない。恐らく、お互いが理解し合える日は永遠に来ない。 静かに秀麗は立ち上がり、蒼公に近づく。そして、袖の裏に縫いつけた隠しから福寿草の毒の入った小瓶をゆっくりと取り出す。 「阿芙蓉の密造及び密売の首謀者として、その罪を今ここで死をもって償いなさい」 阿芙蓉が広まれば人民は混乱の渦に巻き込まれるだろう。かの伝説の医神・華娜(かだ)が初めて阿芙蓉を医療に使用したと聞く。人体切開の際の麻酔として。しかし、阿芙蓉が医療用以外で用いられることを彼女は危惧したのだろう。医学書に製造法を書き記したものの、華娜自身は専ら針麻酔を使用した。そして、今まさに華娜が想像した通りの事態が起こりかけていたのだ。その罪は重い。死は免れない。 「あなたは人をその手で殺すのね」 蒼公は秀麗に向かってそう言ってから、自嘲するようにケタケタと壊れたように嗤う。 「言ったはずです。間接的であろうと直接的であろうと同じことなんです」 秀麗はまるで自分に言い聞かせるように、鋭い言葉をぶつけた。彼女の足は震えていた。けれど秀麗は相手にそれを悟られないよう必死に心を奮い立たせる。負けてはだめ。覚悟はとっくの昔に決めたはずだ。出掛けに胡蝶に言われた言葉を思い出す。 ―秀麗ちゃん、殺す相手に情けは不要だよ。余計なことを考えると殺せなくなっちまうからね。 鋭い胡蝶は秀麗が何をしに行くのか、分かっていたのだ。また、この言葉は胡蝶が下町を牛耳る組連の親分衆の一人であったからこそ言えた言葉でもある。それがどれほど秀麗の心の支えになったことか。 「いいわよ、飲んであげる」 蒼公は手を伸ばし、その小瓶を受け取る。割ったって無駄だ。他にいくらでも予備はある。無理矢理飲ませるという手もある。しかし、蒼公は迷うことなく蓋を開け、中身を一気に飲み干した。 「これでご満足かしら?」 楽しげに蒼公は笑う。いくつもの命をこの手で救ってきた。そして、いくつもの命をこの手の中で失った。いつしか、薬にも毒にもなる阿芙蓉を広めたくなった。完全なる薬など存在しない。全ては毒なのだ。この医術も時としては毒になりうる。 「楽しかったわ…」 蒼公は誰に向かって、というわけでもなく呟く。秀麗はその姿を見下ろし、最後に一言だけ蒼公に向かって言う。 「今度こそ、幸せになって下さい」 それを聞いた蒼公はふっと顔を弛めた後、突然胸を押さえ、嘔吐し、それからゆっくりと床にくずおれる。 ―もうこの屋敷には誰も来ない。きっと、助からないだろう。 そして、秀麗は"幸せを招く"と言われる福寿草の毒が入っていた小瓶を隠しに仕舞い込み、その部屋を後にした。 秀麗が屋敷から出ると、全てが片付いた様子で、清雅がどこからともなく現れ近づいてきた。 「…清雅。ちゃんと殺(や)ったわ」 秀麗は落ち着いた様子で、袖の隠しから空いた小瓶を清雅にポンと放り投げる。 「よくやった」 それをパシッと受け取った清雅はあっさりとそのように言ったが、内心次のようなことを考えていた。 (…こいつが本気で殺せるか試す意味もあったんだが、思ったより強いな。人を殺した後に平気な顔してやがる) 「それから、御史台の内部に裏切り者がいるはずよ。事前に情報が漏れていたの」 落ち着いた声色で秀麗は続ける。そして、決して不正は見逃さない。たとえそれが昨日の友であろうと、そうするだろう。 「分かった」 清雅は短く答える。おそらくそうだろう、と清雅も気付いていた。屋敷に着いたときから様子がおかしかったから。けれど、そういうことも事前に想定して準備を進めていたから全く支障はなかった。が。 (そいつを割り出したら速攻叩き落として、裏切ったことを一生後悔させてやる) ぎりっと拳を握りしめ、清雅は空を見上げた。すっかり日は昇っている。 「撤収だ」 清雅を始めとして大勢が引き上げていく。秀麗は来たときのように馬車に乗って帰る。一緒に乗ってきた二人は別の馬車で先に帰ったようだ。秀麗が乗る前に先ほどまでいた屋敷の方を振り返ると火の手が上がっていた。これも清雅の手の者の仕業だろうか? 恐らく屋敷の奥の庭で密かに育てられていた阿芙蓉の花を焼き払う意味もあったのだろう。蒼公の死体とともに。秀麗は立ち上る赤き炎と煙をぼんやり眺めていた。すると、清雅が腰を攫ってひょいっと小脇に抱え軒に乗り込んだ。その後、二人は向かい合って座った。馬車が走り出して間もなく、清雅が秀麗に話しかけた。 「お前、案外強いんだな」 その言葉に目を閉じていた秀麗が顔を上げ、清雅の顔を見る。 「それは褒め言葉として受け取ればいいかしら」 そう言った秀麗はどこか憂いを帯びた表情でふっと笑う。こういう表情も艶めかしく普通の男なら靡(なび)くはずだが清雅の場合は違う。 「勝手にしろ」 至極落ち着いた様子の秀麗を一瞥し清雅は再び黙る。いつものようにぎゃあぎゃあ騒いでいる秀麗の方が違和感がない。目の前にいる女はやっぱり別の人間なんじゃないかと思う。それでも―。でも、本物なのだ。こいつにしか出来なかったことだ、と清雅は心の中で呟く。 蒼公という医者は、女子供しか診ないことで有名だった。それがどうしてなのか、調べても全く出てこなかった。生まれも生い立ちも何一つ手がかりは残っていなかった。また、非常に警戒心が強いらしいことも調査で分かった。 しかもその上、医者という身分がなかなか厄介だった。名医として有名だったから、貴族との繋がりもあったようで、蒼公を贔屓している官吏もかなりいたらしい。つまりは、阿芙蓉が朝廷の官吏の中にも広まる可能性があったのだ。しかし、それだからこそ公には動けなかった。勿論、蒼公と手を結んで阿芙蓉の取引に関わっていた者は特定済みで今頃は縄にかかっているはずである。 けれど、蒼公本人を捕まえたところで得られる有益な情報など無い。はっきりいって不要だ。むしろ、医者ということが面倒なことを引き起こす可能性は十分あった。阿芙蓉の精製法は一般には知られていない。厳重に管理されている。しかし、裁判となればそれに関わる者の知るところとなるだろう。だから直接手を下すしかない、という判断に至った。 許可は下りた。そして、送り込むなら女である秀麗しかいなかった。阿芙蓉などの禁止毒物を広めた者に対する処罰は毒をもって為される。そして、基本的には直接本人の手で自ら飲ませることになっている。己の罪の重さを知らしめるために。 そして、今回秀麗はその通りの結果をもたらした。よくやった、とこの時ばかりは清雅も認めざるを得なかった。当然、とも思ったがそれでも初めて人を殺したのだ。普通、平気でいられる筈がない。 それでも目の前の秀麗の様子を見て清雅はほっとする。泣かれでもして面倒を見るのは正直御免被りたい。こういう時の扱い方は未だに慣れていないのだ。自分の唯一苦手なことかもしれない。秀麗は窓からぼんやりと外を眺めている。それでも、横顔が以前より更に凜として美しい。 (…こいつはまだまだ磨く価値がありそうだ、な。) 清雅はそんな秀麗を一瞥し、宮城へ戻るまで一時の安眠を貪(むさぼ)った。 清雅と秀麗は御史台の中で別れ、それぞれの部屋へ戻る。秀麗は衣服を自分のものに着替え、簪をとって髪を下ろし、更に胡蝶に施してもらった化粧をも顔を洗って綺麗に落とした。それから仮眠室へと足を向ける。いつも紙を貼り付けては殴っていた布団を取り出し、その中に顔を埋める。 「ぅ…うっ…」 秀麗は背中を震わせ、声が漏れないように布団の中で涙を流した。気が済むまでずっと泣き続けた。 最終的な処理や葵皇毅への報告が終わって、一休みしようと仮眠室に入りかけた清雅が入り口でぴたりと足を止める。中にいる秀麗の姿を見てしまったのだ。秀麗は気付かない。 清雅は暫くそこで立ちつくし、そして何も言わずすっと姿を消した。 秀麗がこの日泣いたことを知っているのは唯一人、清雅だけである。 →→後書き 阿芙蓉(あふよう)とは、いわゆる麻薬である阿片の中国名(アフヨン)で、蒼公はケシの花を育てたわけです。蒼公は淳于意(倉公)を参考に。というか名前だけですが(汗)蒼公が男性のふりをしていたのは、女性の医者というのがあまり一般的でなかったからで、一人前の医者として認めて貰うには男性として生きていかなければならなかったという過去がある裏設定。本文に上手く書けなかったけど。今回は秀麗に非常に辛い思いをさせてしまって、正直反省してます;でも、秀麗が今のままでこれから先やっていくのだろうか、と考えた時にどこかでいわゆる"甘さ"を捨てないと駄目なんだろうな、と。「間接的であろうと直接的であろうと同じことなんです」この言葉が全てです。タンタンが関わった贋金事件の時も秀麗は間接的にタンタンのお父さんを殺すことになっていたかもしれないんですよね。だから、それは分かって欲しいなと思って。けど、秀麗は基本自分には厳しいけど他人に対する優しさっていう"甘さ"は絶対捨てないと思いますよ。多分捨てても捨てきれないだろうし(苦笑)。あ、裏切り者は馬車に乗った2人の内の片割れですよ。分かりましたか? 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