邵可と二人きり、ぽつりぽつりと話をしながら菜が出来上がるのを待っていた清雅は、話が一区切りついたところで立ち上がった。 「すみませんが、厠をお借りできますか?」 「ええ、どうぞ。この部屋を出て右の突きあたりの角を左に曲がって真っ直ぐ行けばすぐ分かりますよ」 「有り難う御座います」 清雅はペコリと頭を下げると、ゆったりとした足取りでその部屋を出て行った。 油断大敵? 噂の彼は監察史 「―さてと」 部屋から出ると、清雅は一息つき、邵可に教えられた方角とは正反対に向かって歩き始めた。 (調べたところによると、あの女の部屋は確かこっちだったよな。) 心なしか足取りは速く、しかし足音を少しも立てずに清雅は歩いていく。まるで勝手知ったる自分の家であるかのように。そして、目的の部屋を見つけると躊躇いなく扉に手を掛け、思いのままに扉を開いた。 「あれ? 清雅君。どうしたんだね」 が、目的の部屋を開けたところで中にいた人物に声を掛けられて清雅は心臓が飛び出しそうなくらい驚いた。 (・・・何故、この人がここにいる。) 清雅は狐につままれたような面持ちで、何故か自分の目の前にいる邵可に向けなんとか声を絞り出した。流石に家の主にどうして秀麗の部屋にいるのか、と尋ねることは出来なかった。自分より先回りしているなんてことは普通考えられないのだが…。 「いぇ・・・あの……迷ってしまったみたいで」 「おやおや。実は清雅君、見かけによらず方向音痴だったりするんじゃないかい?」 邵可はニコニコと笑いながら清雅を部屋の外へと連れ出し、秀麗の部屋の扉を閉める。 「自覚はなかったんですが・・・どうやらそのようですね」 ははっ、と笑いながら清雅は頭を掻く。 「うちによく来るある人も方向音痴でね。その人は天才的な頭脳の持ち主なんだけどね。誰しも苦手なモノはあるんだね」 「はぁ・・・」 もしかして、もしかしなくてもそれは吏部侍郎である李絳攸のことだろうと清雅は思ったが、あんな奴と一緒にされるのは御免だ、とかなりいい加減な相づちを打ってしまった。が、そんな清雅の態度もよそに、邵可は口元に人差し指を立ててコソッと清雅に話しかけてきた。 「このことは秀麗や蘇芳君には内緒にしておいてあげるよ」 「助かります」 そして、その言葉に清雅は見た目爽やか好青年の如き微笑みで返す。それから邵可は清雅の肩を持ち、厠へと足を向ける。 清雅が厠から出ると、邵可が厠の前で待っていた。清雅がまた迷わないようにだろうか。そこで、清雅はふと思い立って次のように言った。 「お庭院(にわ)を見せて頂いても宜しいですか?」 「いいですよ」 邵可は少しも嫌そうな顔をせず、そう答えた。そして、清雅は邵可の後について庭院へ出た。古木に混じって、低い若木が何本も立ち並んでいる。桜、梅、李、橘、紅葉、椿、南天…。四季折々の木々。池には何匹か魚が泳いでいるのも見えた。しかし、その魚のどれもが小さかった。彼らが紅本家からこちらへ移り住んでからずっと、手入れ・管理され続けていたのならば、もっと大きくなっていてもおかしくなかった。 「随分と小さな木が多いんですね」 それらは清雅が前々から不思議に思っていたことだった。調べても、その理由は分からなかったし、そこまで重要な理由でもないのかもしれない、と放っておいた疑問の一つだった。 「そうだね。あの子たちがようやく最近になって新しく木の苗をとってきて植えていたようだから。大きな木はあるけど、あれは花も咲かないんだよ」 邵可はその光景を思い返すように言った。静蘭と秀麗が劉輝様から届けられた桜の苗木を植えた後、山で色々な苗木を探しては庭院に植えていった。魚も釣りに行って、あまり釣れなかったけれど、それでもその魚を池に放した。寂しかった庭も少し華やかさを取り戻したようで―嬉しかった。妻との思い出が残る庭院が新たに生まれ変わる姿を見て。何かが失われてしまうのではないか、と恐れていたけれど、失われたものよりもずっと、得られたものの方が多かった。そして、全ては移ろい変わりゆくものであるということも。それが人間や自然のあるがままの形。変わらないのは―。 「…それは、どうしてですか?」 理由は何となく清雅にも想像はついた。もう今では10年も昔のことになってしまったが、それでもはっきりと清雅の記憶に残っている。おそらく―王位争い。だが、どうして長い間手をつけなかった庭院を今更どうこうしようという気になったのだろうか。何故かそのことが無性に清雅の気に障った。自分の知らない何か―が。 「―それは、娘から直接話してもらった方がいいんじゃないかな。あの子ももう話せるようになったと思うよ」 邵可は一拍の後、そう清雅に返した。目を細め、何かを思い返すように古い桜の木を見上げる。 「…そうですか。でも彼女は僕に話してくれないかもしれません。随分と嫌われているようですから」 清雅は静かな声でそう言った。最後の一言は苦笑混じりで。 「おや、そうかな。あの娘(こ)は君の事を嫌いではないと思うよ」 邵可は桜の木から隣の青年へと目を移した。 「どうして…そう思うのですか?」 邵可の言葉に清雅は目を丸くし、そして躊躇いがちに尋ねた。 「だって、ちゃんと君と向き合って話をしているだろう? 本当に嫌いだったら口も利こうとしないだろう」 「そうでしょうか」 清雅は大きな桜の木に近づき手を伸ばした。何故、今まで木が植えられなかったのか。何故、今になって木が植えられたのか。その理由をいくつも考えながら、桜の幹を何度も撫でてゴワゴワした皮の感触をその手に刻み込む。 ―お前は、その理由を知っているのか? 「君も―あの娘のことが嫌いではないだろう?」 そんな清雅に邵可は後ろから声を掛けた。 ―あの女を、俺が嫌いではない、だと? 清雅はピタリと手を止めた。胸の中に様々な感情が浮かんでは消えていく。さらに邵可は続ける。 「互いに認め合う日は来なくても、理解し合う日が来るかもしれない」 全てを知っているかのような口ぶりに清雅は驚かされた。そして、清雅自身が気付いていないことにも気付いているかのように。 「…少し風が出てきたようだね。そろそろ中に入ろうか。菜もそろそろ出来上がる頃だろう」 さぁっと風が吹き、青々と茂った葉が葉擦れの音をカサカサと鳴らす。そして、黙って二人は部屋へと戻った。 二人が部屋に戻って席に腰を下ろしてから、清雅は卓子の上に置きっぱなしにしていた包みに目を落とした。先ほど市で買ったものが中に入っている。 別に何ということはない。ただ、秀麗と蘇芳がニラを売る店で値切り交渉をしている間、出来れば店自体に近付きたくなかったので何気なくふらりと市を見て回り、何か買いたい物があるから少し見て回って買ってきた、という風に見えればそれで十分だった。だから本当は買う物はなんでも良かったのだ。 けれど、ある店の前で思わず足を止めてしまった。まるでそれは今日この日に自分がその店を訪れることを見越して置いてあるのではないか、と思うほどに清雅の目を惹き付けた。思わず値段も聞かずに「これを下さい」と店主に言ってしまったくらいだ。店主は清雅とその手の指し示すものを見比べて、「贈り物かい? 安くしておいてやるよ」とニヤッと笑みを浮かべながらそう言った。清雅は思わぬその言葉に不覚にも狼狽えてしまった。「…え、えぇ」と何故か非常に照れくさい気持ちになりながらそう答えると、店主は綺麗にその品物を風呂敷に包んでくれた。 (……これは今この人に預けるべきだろうか?) 元々はそんなつもりは無かったのだが、何故か今の清雅はそういう気持ちになっていた。そもそも、その品物に迷わず手を伸ばしたこと自体、自分では信じられないのだ。後で思い返しても不思議なものである。けれど、買ってしまった時点でどうしよう?と考えた時に思いついたのは仕事上の理由にかこつけてそれを渡すということであった。しかし、今では何故かそれも面白くない気がしたのだ。そして、この人に預けても問題はないとみた。 「あの…これなんですが」 思い切って清雅は手元の包みを開き、邵可に見せた。中から現れたのは金糸や銀糸で美しく刺繍が施された目にも鮮やかな紅色の綾絹の衣だった。 「これは…見事ですね」 邵可は目を見張った。事実、その衣は"市場"に置いてあるものにしては不思議なほど見事なものであった。…値段はさほど高くなかったのであるが。 「これを秀麗さんに、僕からとは言わず、渡してもらえないでしょうか?」 「名を伏せて、ですか?」 邵可は丁寧に折り畳まれた衣の折り目が崩れないように注意しながらそっとその衣に触れた。 「えぇ。僕から、と言ったら彼女は受け取らないでしょうから」 自嘲的に清雅は笑ったが、邵可はそれに対して何も言わなかった。 「お願いします」 清雅は最後にそう言い、邵可の前に包みごと衣を押し出した。 「分かりました。必ず」 邵可は口元に微笑を浮かべながら、衣を元通りに綺麗に仕舞いなおすと、その包みを持って棚の方へ向かい、そっと隠した。 と、丁度コンコンという扉を叩く音が聞こえ、続いて秀麗、蘇芳、静蘭の三人が菜を手に入ってきた。いい匂いが部屋一杯に広がる。 清雅はその匂いが嫌いではなかったし、皿に乗せられた菜を見ても決して嫌な気持ちはしなかった。そして、彼がその菜を口にするその時も、決して嫌な気持ちではなかったのである。 蘇芳と清雅が帰った後、秀麗の淹れたお茶を飲みながら、秀麗と静蘭と邵可は一家団欒の時を過ごしていた。 「今日は久しぶりに騒がしかったわね」 お茶を飲んで一息ついた秀麗がポツリと呟いた。 「そうですね。最近は藍将軍も絳攸殿もお嬢様もなかなか忙しくて食事会も開いていませんし」 「そうねぇ〜ホント最近は私も忙しくて……でもそれが嬉しいわ」 ふふっと秀麗は笑いながらそう言った。 「あ、そうそう。秀麗、君に預かっていたものがあるんだよ」 そんな秀麗を見て、邵可はいそいそと立ち上がると棚から包みを持ってきて、卓子に載せた。 「へ? 私に? 誰から?」 秀麗は首を傾げながら机の上に置かれた包みを見た。どこかで見たことのあるような包みだったが、よく見かける包みなので秀麗はさして気にしなかった。 「まぁ、開けてごらん」 邵可はニコニコと組んだ両手の上に顎をのせて娘の様子を眺める。横からその様子を見ていた静蘭は眉を上げた。 (昼間は来客もなかったし、旦那様は外にも出かけられていない…ということはこれはもしや―) 秀麗はゆっくりと包みを解くと思い切って開いた。 「えっ…ちょっと、これ高い品物なんじゃないの…?!」 中身を見た秀麗はいてもたってもいられない様子でそう叫んだ。 「頂いたものは、大切にするんだろう?」 邵可は面白そうに娘のころころ変わる表情を眺める。秀麗は青くなったり、目を輝かせたり、眉をひそめたり、と考えていることが手に取るように分かった。 「う、売りません。でもでも、こんな綺麗な衣、普段着には勿体ないわ。着るのは特別な時にするわ」 むむむ、と秀麗は言った後、そう宣言した。綺麗な衣も着てもらえないことが一番勿体ないということは頭で理解していても、さすがに普段着にするのは躊躇われるほど見事だった。 「これって…まさか主上から…とかではないわよね」 秀麗は包みの中身を確認しながら邵可をちろりと見た。包みの中に文は入っていない。ということは、劉輝ではない。彼は贈り物をする時も匿名希望ではあるが文を合わせて送ってくる。 「玖琅叔父様…とか?」 とりあえず思いついた名前を挙げてみる。紅色の衣、ということから紅家の人かと思ったのだ。 「残念だけど、玖琅は来てないよ。匿名希望の方からだけど、ちゃんと大切にするんだよ」 「…はい」 匿名希望の親切な誰かから、ということで秀麗は有り難くそれを頂戴することにした。匿名希望、と言われてしまってはもう誰かとも聞けない。 (…親切な誰かさん。有り難く頂きます。御礼の文を出せないことをお許し下さい。) そして、その夜。秀麗は一度だけその衣を羽織ってみてから、大事に葛籠の中に仕舞い込んだ。次に着る時まで綺麗な状態であるように。後に秀麗はその衣を着る機会を得て着ることになるのだが―。それはまた別のお話。 後書き→→ あれ?何か清雅が…性格が…おかしいなぁ。ゴシゴシ。ひねくれさせるつもりだったんだけどな、これでも。見なかったことにしよう…。というか、あたかも話が続きそうに書いてありますけど、多分続かないハズです。気まぐれで続く可能性は限りなくゼロに近いです。。 |
SEO | [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送 | ||