夫未戰而廟筭勝者得筭多也
未戰而廟策不勝者得筭少也
多筭勝少筭敗
況无筭乎
吾以此觀之勝負見矣


算多きは勝ち、算少なきは敗る


…多分、秀麗から清雅に喧嘩を吹っ掛けたのはこれが初めてだったと思う。


「きぃぃいいっ〜!! あんったって奴はホントにむかつくわね」
何があったか此処で述べるのは憚(はばか)られるのであるが、兎も角も秀麗は奇声を発して清雅に当たり散らしていた。傍でそれを見ていた蘇芳は思わず目を逸らした。
(お嬢さん…ついに壊れたね)
「はっ。そんなんじゃ、何年かかったってお前が俺に勝てる見込みは無いな」
秀麗はギリギリと爪の跡が付くほどに拳を握りしめた。目の前の天敵をこれでもかという程に睨み付ける。
一方清雅は優雅に茶に手を伸ばし、それを美味しそうに啜ってすっかり寛いだ様子だ。
くわっと秀麗は目を見開いた。視界に入るだけでも鬱陶しいこの男を何が何でも屈服させてやる―。
彼女はそう心の中で呟くと、頭を最大限に働かせて清雅をいかにして打ち負かすかの方策を練った。


考えること僅か数十秒。


「そうよ。清雅、勝負しましょう」
秀麗は端から見ると突然思いついたように、腰に手を当て高らかに宣言した。
「はぁ?」
清雅は眉を跳ね上げ秀麗を馬鹿にしたような目で見る。何言ってんだ、この女(アマ)
「お酒で。」
秀麗はどこから出してきたのかガンッと卓子の上に酒瓶を出して言った。清雅は仕事場にこんなもの持ち込んだのは誰だ、とは聞かなかった。・・・よくある話だ。それより―彼女は自分が確実に勝てる勝負に出た。いや、寧ろ勝てない負け戦はしないだろうが。
「論外だ」
清雅はそう切り捨てた。この勝負があからさまに秀麗にとって有利だからだ。
「あら、逃げるわけ? あんたそれでも男?」
その言葉にカチッときた。理性がぶっ飛んだ。
「あぁ、いいだろう。受けてやるよ」
ガツンと思いっきり机を拳で殴りつけて清雅はハッキリとそう言った。秀麗はそれに少しも驚きもせず、
「男に二言はないわよね」
"勝った"といった表情で清雅に確認した。―ここで断ったらそれこそ男が廃る。
「勿論だ」
半ばやけくそに清雅は答える。頭に血が上っていたせいか、もはや冷静な判断は出来なかった。
「それなら、酒は俺が用意するからな」
清雅は秀麗の手にある酒をちらりと見て言った。・・・安い酒だ。まさか、そんなものこの俺に飲ませる気じゃないだろうな。
「お好きにどうぞ」
その言葉を聞くや否や、まんまと挑発に乗せられて秀麗の勝負を受けることになってしまった清雅は部屋から颯爽と出て行った。


「う…俺、もう駄目」
最初に脱落したのは、蘇芳だった。気持ち悪い、と呟き彼はそのまま卓子に突っ伏した。すぐに寝息が聞こえてくる。頬は紅潮し、体温はかなり高くなっている様子だ。そんな蘇芳の隣で清雅と秀麗はブチブチと積もり積もった恨み辛み嫌味を相手にぶつけ合いつつ酒をあおっていた。そもそも蘇芳が二人の酒飲み対決に付き合わされたのは別にこの二人に言われたわけではない。ただ、"ある人"に言われていることを忠実に守ろうとしただけで、成り行き上そうなったのだ。可哀想に…と彼を哀れむ者はここにはいない。いるのは―ただの酔っぱらいだけだ。
「んだぁからぁ〜、あんたは肝心なとこで甘いのよぉ」
煽った杯を卓子に打ち付け、据わった目で清雅を見据えながら秀麗は言う。
「おん前ひっく…だけには言われたく…ねぇな」
清雅は酒が相当入って頭が朦朧としつつあり、発する言葉に覇気は無い。舌が縺れ、呂律も回っていない。彼の場合、どうやら酒が入るといつも以上に輪を掛けて心が冷え切るらしい。端から見れば、機嫌が悪いようにも見えるだろう。彼がここまで酒に飲まれる程酒を飲んだのは今回が初めてだ。とっくの昔に限界は来ていたはずだが、秀麗に負けたくないという一心が今の彼を支えていた。
一方、秀麗はと言えば、彼女も酒に強いとはいっても、やはり頬が朱に染まっており、瞳は潤み実に色っぽい。次々に高濃度の酒を干していくその口も、目に鮮やかな紅の引かれたぷっくりとした唇に思わず目がいってしまう。そんな秀麗を見て、清雅は彼女が"女"であると認識させられざるを得なかった。そして、彼女が"女"であって良かったとも。
「そぉよ。そぉおいうあんたの自信過剰、唯我独尊 、俺様至上的な考え方、改めなさいよぉ〜」
秀麗は少し仰け反り、うっそりと目を細める。"高ビー"だの"マメ吉"だの彼女にさんざん言われたが、清雅にとって別にどうってことない。
「"俺様"で何が悪い」
清雅はガタリと音を立てて椅子から立ち上がり、フラフラと足下が覚束ないものの、腕輪のはまった右手を卓子に付き、左手を秀麗に伸ばして顎をひっつかむ。力の加減ができないのか、秀麗はかなり強めに掴まれる形になる。
「思い上がりもいい加減にしなさいよね」
そうピシャリと言い放ち、彼女は絶対零度の眼差しで目の前の天敵を睨み付けた。どうやら痛みに正気に戻ったらしい。


―"思い上がり"、だと? この俺が?


「それは俺の台詞だ」
そんなに言うのなら思い知らせてやる―。清雅は卓子についた右手に自分の体重をかけ、秀麗に顔を近づける。と、清雅の口元を 不躾に秀麗の手が塞いだ。
「この勝負、"お酒だけ"よ」
清雅ははたと気付く。今俺は何をしようとしていた―と。これは正々堂々勝負しなければ意味のないことだ。そして、その彼女に "お酒だけ"だと言われてしまっては引き下がるしかない。そうだ、まだ勝負はついていない。顎にかけた手をゆっくりと離し、腰を椅子に落とす。ギシリ、と椅子が啼いた。スー、スーという蘇芳の寝息が清雅にとっては煩わしかった。


新たに酒を2つの杯に浪波と注ぎ、清雅は秀麗に渡す。その手は微かに震えている。秀麗は受け取るや否やそれを一気に飲み干した。
―このスピードで空けられると流石に清雅もついていけない。清雅はくるりと杯を揺らし、それには口をつけずに秀麗に話しかけた。
「…お前さぁ、いい加減嫌にならないか?」
「何が」
秀麗は勝手に自分で酒瓶に手を出し、杯に新たに酒を注ぎながらつまらなさそうに言った。一体いつまで続くのだろう、この勝負は。
「官吏。普通の女みたく嫁に行けば少なくとも俺みたいな奴と顔合わせなくて済むだろ」
自分で言って後に"おかしい"、と清雅は自嘲した。あぁ、そうだ―。彼女は俺のことを嫌っている。そんなことは分かっている。
「あら、私は結構楽しいわよ」
それから"…あんたとやり合うのもそれはそれでね"、と口の中で呟く。ぴくっと清雅はそれに反応した。楽しいと、思っているのか?
―この俺と一緒に仕事をさせられることも? この俺に嵌められて手柄をかっさらわれても?
秀麗は頬杖をつき、清雅を見つめてゆっくり言った。
「あんたは―楽しくないの?」
その言葉は清雅の胸に響いた。"楽しく"ないのか?という彼女の何気ない言葉が彼を戸惑わせた。やりがいを感じてやってきた。仕事をするのも好きだ。―けれど、楽しいかどうかそれは分からない。無能な官吏をとことん叩き落とすことは楽しい、というより馬鹿馬鹿しいから当然のことのようなものだ。手柄を立てるのは自分が欲しいものを手に入れるための手段でしかない。それは秀麗の姿とは全く違う。そう、彼女はどんな状況でもそれを"楽しんで"いるのだ。官吏でいられることを幸せに思いながら。


清雅は手遊びに弄んでいた杯に口をつける。そしてゴクリ、と一口だけ飲み下す。
「…俺は」
そう言いかけて、清雅は自分の身体が傾いでいくのを感じた。周りの景色がグラグラ揺れて見える。マズイ―そう思った時には遅かった。手に持っていた飲みかけの杯は床に落ち、中身は周りに飛び散った。倒れる瞬間、杯に向かって手を伸ばしたが、身体が思うように動かなかった。諦めてそのまま床に仰向けになる。天井もグルグルと回っているように見えて…気持ち悪い。
「負けた方は勝った方の言うことを何でも聞くんだったのよねぇ〜」
うふふ、と含み笑いをして秀麗は清雅の顔を上から覗き込む。
「…あぁ」
悔しいが負けは負けだ。端から勝てる見込みのない勝負なんか受けるんじゃなかった…。今更後悔しても遅いが。そして清雅はそのまま眠りに落ちた。・・・誰かが布団を掛けるのを朧気にも感じた気がする。



―翌日。


「…何かあったのか?」
葵皇毅は開口一番、部屋に入ってきた二人を見てそう言った。
「いえ、何もありませんよ」
そう言って清雅は凄絶な微笑を浮かべる。秀麗もその横で同じようにニコニコと笑っている。
「…そうか」
皇毅はそれだけ呟き、それ以上何も追及することは無かった。そう―たとえ彼の部下の覆面監察史が女物の衣服を着ていようとも。意外にもそれは彼に似合っていた。髪は女髪に結われ、髪飾りまで付けられている。勿論、化粧もさせられている。
(・・・清雅に女装させて潜入捜査させる、という手もあり得るか)
皇毅は勝手に心の中でそんなことを考えながら、いつもの通り二人に的確な仕事の指示を行った。


可哀想なことに、その日は御史台の内部だけでなく、別の部署へ向かう用事があった清雅は行く道すがら何人もの官吏から声を掛けられた。
「おや、新しく入った女官かい? ここで何してるの?」
「ねぇ、君。仕事が終わった後に一緒に夕食でもどう?」
その度にぞわりと身の毛が立つのを清雅は感じなければならなかった。中には強引に清雅に迫ってきた男もいた。上手くやり過ごしたものの。
それに、御史台の内部で清雅をよく知るものからは失笑された。
「よく似合ってるよ」
その言葉の裏に隠された意味を清雅は敏感に嗅ぎ取った。清雅の手法に疑問を持つ者は御史台の内部にも結構いるのだ。
―恥知らずが。男の誇りを捨てて、目的の為なら何でもやるのか。
―女をさんざん馬鹿にしておいて、それを利用するとは。
清雅はどう他人に思われようが構わないので、そのような者に少しも興味を示さなかったが、それが一日の内に何度も繰り返されればいい加減気分が悪くなった。
(・・・畜生、胸糞悪い)
秀麗に監視され続けているわけでもないので、勝手に衣装を脱ぎ捨てようかとも思ったが、それも途中で思いとどまった。勝負に負けた上に、その罰としての課題を途中で放棄したら―それこそ本当の敗北を意味する。それだけは絶対に出来ない。


…ちなみに、蘇芳は素直に褒めてくれた。
「うわっ、それセーガ?」
いつも通り蘇芳が朝部屋に入ると秀麗の隣に誰か知らない女がいた。驚きつつ、横に脱ぎ捨てられた服を見て気付いた。―あれは清雅の。清雅らしき人物を思いっきり指さして"それ"呼ばわりして秀麗に尋ねた。
「えぇ、そうよ。いいでしょ」
秀麗は自慢する。どうだ、と言わんばかりに。
「…」
清雅はばつが悪そうに蘇芳から顔を背けた。
「で、結局セーガが負けたわけね」
蘇芳は結局朝まであの部屋で眠っていたのだ。清雅も秀麗も先に帰っていたようだからどっちが勝ったのかは分からなかった。
「いいじゃん、似合ってるよ。セーガ」
ヘラッと蘇芳は笑って清雅を心の底から褒めた。細身の清雅は女装するとここまで女っぽいのか、と。
「お前なぁ…」
蘇芳の方をちらりと見て、少しも裏に隠された感情が一つもないことに気付き言葉を切った。苛立った感情も収まった。
「さぁ、いざ出陣!」
秀麗はバシッと清雅の背中を押して部屋の外へと促す。
―憂鬱だ。
しかし、清雅は廊下で数多くの者に会うのも嫌だったのでそそくさと自分の部屋へ引き下がった。


こうして、清雅は"今日一日、女装して仕事をしなさい"という秀麗の命令をやってのけたのだ。


夕刻―。仕事を終えた秀麗が清雅の元を訪ねた。清雅の方も仕事が片付いていたようで、暇そうにパラパラと書を眺めていた。
「あら、まだ着替えてなかったの?」
秀麗は清雅を見て開口一番そう言った。その声に清雅はゆっくりと書から顔を上げ秀麗の顔を確認すると、心底嫌そうな顔をした。
「"今日一日"と言ったのはお前だろう?」
「あぁ、そうだったわね。でも、もういいわ。お疲れ様」
秀麗は合点がいったという顔になり、次ににっこりと笑って清雅を労(ねぎら)うかのようにそう言った。
「そうかよ」
それを聞くや否や清雅はいきなりその場で次々に服を脱ぎ始めた。
「ちょっと・・・清雅」
秀麗は顔を赤くして顔を背け、暫くして自分が部屋から出れば良いことに気付き、くるりと背を向けた。
が、清雅が秀麗の細い手首に手を伸ばしそれを引き留めた。秀麗は振り返らず、
「何?」
と憮然とした声で尋ねる。
「髪―ほどけ」
なるほど、秀麗が結ってやった髪型は特に後ろの部分が少し複雑で、清雅が自分で解くことは難しいだろう。せっかくやるなら思いっきり可愛くしてやろう、と言って秀麗が張り切ったせいだ。それなりの髪型なら秀麗も一応結える。清雅のように何種類も複雑な髪型は結えないが。
「服、着てからでいいでしょう?」
ゆっくりと秀麗はそう言った。清雅に言い聞かせるように。自分の思い通りにことを進めようとする清雅は次にどう出るだろうか―。
「ふーん。お前も男の裸見てどぎまぎする口か」
この言葉には流石の秀麗も思わず「はぁ?」と聞き返してしまった。何を言っているのだろうか、この男は。
「べべべ、別に裸くらいどうってことないわよ」
それから、清雅の方を全く見ようとしない秀麗は、明らかに"どうってことありそう"な様子で答えた。
「じゃ、いいだろ」
そう言って、清雅は思いっきり秀麗の手首を引っ張り自分の元に引き寄せた。
「な、何よぅ・・・」
否応なく清雅の身体が視界一杯に入った秀麗は思わず目を逸らす。清雅は上半身裸だった。下は既に男物に着替えていたようだ。…素早い。
「別に」
ふんっと鼻を鳴らし、清雅は秀麗の手を離してから椅子に腰を下ろし、何かを求めるように目をじっと見つめる。
「・・・はいはい」
諦めた秀麗は清雅の背後に回って清雅の髪を解き始めた。今朝触ったときも思ったが、清雅の髪の毛は癖がある。結いにくい、 という程でもないがそれでもやはり結うときには少し考えねばならない。けれど、丁寧に手入れはされているようで、不規則な 時間で仕事をしている割には枝毛は無かった。確かに考えてみれば、身体自体も至って健康そうである。


「・・・ねぇ」
「何だ」
躊躇いがちにかけられた声に清雅はゆっくりと答えた。まるで愛しい女に伺うように優しく。
「やっぱり、あんたにはまだ敵わないわね」
その言葉に清雅は瞠目する。てっきり彼女は勝利の余韻に浸っているものだと思っていたから―。酒で負けたのは事実だ。そして、今日一日さんざん恥をかかせてもらった。それなのに俺に"敵わない"という感想はどういうことか。
「当然だろ?」
清雅はそのすっきりとした一重の瞼を持ち上げ、見上げるようにして秀麗に言った。口から出る言葉はいつもと同じなのに、響きが違った。まるで自分に言い聞かせるかのように。勿論、彼女がまだまだ自分には及びもしないことは清雅には分かっていたが。 しかし―何故かこの時、彼女が自分に匹敵、あるいはそれ以上の官吏になる気がした。そんなことは死んでも決して認めたくないが。
「そうね…」
秀麗は瞼を落とし、そっとそう呟いた。"仕事以外のことで清雅に勝っても意味がない"と秀麗は気付いたのだ。この時、秀麗の顔つきはいつものような鋭さはなく、とても柔らかかった。"絶対に清雅には負けない"と宣言した彼女とは全く違う。この表情は決して諦めではない。


優しい手つきで清雅の髪を解いては、櫛を通す。その繰り返し。
スーッという音だけが響く。
何故か二人にとってはそれが心地よかった。


「いつもみたいな髪型に結う?」
綺麗に梳(くしけず)り終えた秀麗は肩越しに清雅の顔を覗き込んで伺った。仕事の時とは違って、秀麗はその優しさを清雅にも見せていた。きっと彼女は心から誰かを憎むということが出来ない性質(たち)なのだ。誰に対しても優しくて甘い。そんな彼女の甘さを馬鹿にしている清雅でさえ、時に彼女の優しさが無性に欲しくなることもあるほどに―。無償で分け与えられるそれに浸っているとすごく心地よいのだ。
清雅は自分の肩に置かれた秀麗の手に手を伸ばし、包み込むようにする。えっ?と秀麗が小さく叫ぶ。けれど、清雅がそれ以上何もしようとしないことに気付いたのか秀麗の緊張はすぐに解けた。秀麗の強張りが解けたのを見計らって清雅は言う。
「結うなら俺の髪を結うより、お前の髪を結った方がずっといい」
―この意味が分からないとか言うなよ。
秀麗はゆっくりと清雅の手が乗せられた自分の手を持ち上げ、肩から離す。どうして清雅は私の髪をそんなに結いたがるのだろう―と。
「そうね」
それでも秀麗はにっこりと笑って言った。清雅から一旦離れて、彼の上着を見つけてきて渡す。清雅はそれを大人しく羽織った。 この時、秀麗はほとんど無意識に、清雅がその袖に手を通すのを手伝ってやった。…清雅の方は考えさせられることもあったのだが。


清雅が椅子を引き、秀麗の手をとって座らせる。仕事に必要な時以外でこんなに優しい彼を見るのは珍しい。
「…言っておくが、どんな髪型になっても文句は受け付けないぞ」
カチャカチャと櫛や簪や髪紐を準備しながら清雅は秀麗にそう声をかけた。
「え? それはどういう…」
以前、"今度は変な髪型に結う"というようなことも言われたこともあるので思わず秀麗は身構えた。しかし、清雅が真剣な顔つきになり、髪に櫛を通し始めたので秀麗は口を噤んだ。その真剣な表情は仕事の時の冷徹怜悧な彼とは少し違う、と秀麗は気付いた。
そして、"何の利益にも成り得ない"髪結いを何故彼がしたがるのか、その理由を考えた。秀麗には分からなかったが。さらには、 すっかり安心して清雅に身を任せている自分に気付き驚く。これは"信頼"と呼べるものだろうか。それとも―他に別の"何か"。
秀麗は清雅の髪結いは嫌いではなかった。そして、清雅が自分の髪を結うとき本当に楽しそうなことも。彼の見せる表情からはそんなことはほとんど伺えないかもしれないが、何故か秀麗はそう思ったのだ。いや、知っていると言った方が良いかも知れない。 彼の仕草、彼の瞳、彼の表情、清雅の表面的な姿だけでも秀麗には清雅が何を考え何を思い何をしようとしているのか手に取るように把握できた。けれど、彼がどう思っているか、つまり楽しいかつまらないか、嬉しいか悲しいか、苛立っているか心穏やかかという感情は分かっても、彼がどうしてそう思うのか、つまり何故楽しいのかつまらないか、嬉しいのか悲しいのかという理由が秀麗にはこの時まだ分からなかった。
彼の心の動きは非常に複雑だ。先ほどまで冷たい態度をとっていたと思ったら、突然急に優しくなったりする。秀麗はそれが不思議でならない。しかも、そのような心の動きを見せるのが自分に対してのみということが。清雅は秀麗の近くにいる蘇芳に対してはほとんど一貫した態度を貫いている。蘇芳以外の者に対しても同じようだ。その相手に対する態度は一貫している。秀麗の前で心を揺らすのとは違って。


「どうしてなの?」
秀麗は考えても分からない疑問を清雅に直接投げかけた。
「うん?」
清雅は髪を結う手を止め、少し顔を寄せた。
「どうして、あんたは私に優しくするの?」
清雅は固まった。何を言っているのだろう、この女は。…俺がいつお前に優しくした。勘違いもほどほどにしろよな。
「…別に優しくした覚えはないが」
出来るだけ声を荒げずに静かにそう言う。何故だろう。そう思うのに、心は全く苛立っていない。むしろ穏やかなくらいだ。わざわざ声を荒げないようにしなくてもいい程に。
「そう? それならいいけど…」
秀麗は不思議そうに清雅の顔を見上げた。それでも尚答えを求めるようなその瞳に思わず清雅は顔を朱に染めた。グラリと心が揺れた。
―何故だ。
幸いなことに秀麗はすぐにまた正面を向いたので清雅の顔はじっくり観察されることはなかった。もし秀麗がじっくりとその顔を見ていたとしたら―。一体何を思っただろう。


この時、無自覚に秀麗は清雅に勝っていた。
それは何の技術も策も必要としない、彼女自身のあるがままの姿によって。
ああいう手は卑怯だ―。
清雅にとって、彼女が自分の得意分野の酒で勝負を持ちかけたことよりも、
それはずっと卑怯なことのように思えた。

(そ)れ未(いま)だ戦わざるに廟算(びょうさん)して勝つ者は、算を得ること多ければなり。
未だ戦わざるに廟算して勝たざる者は、算を得ること少なければなり。
算多きは勝ち、算少なきは敗る。
(いわ)んや算无(な)きにおいてをや。
(わ)れ此(ここ)を以(もっ)て之(こ)れを観(み)るに、勝負見(あら)わる。

と言うが、廟算なくして勝つ者に対してはどう対処すればよいのだろう。
そのような者の前ではいかなる廟算も役立たない気がする。
―どうしたものか。
そう心の中で呟いた後、結い終えた髪型を秀麗に見せるべく鏡を手にし、
鏡を覗き込んだ秀麗の顔が花の蕾のように綻ぶのを清雅は楽しそうに眺めたのだった。




→→後書き
なんかさ、もはや歪み愛じゃないね。でも私が書けるのは多分こういう二人なんだ、と思ってみる。本当は前半部分だけのお話の予定が後半部分も何か書き進めてしまって結局こういうお話になりましたとさ。漢詩文は孫子の兵法より引用。彩雲国でも愛読されてる兵法書。それが使いたいが為に書いたと言っても過言ではない<ホント? あと、秀麗が清雅の髪結っちゃったりするのも逆にいいなぁなんて。毎度のこと蘇芳が脇役程度にしかなってないのが可哀想…。いい味出してますけどね。

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