「馬鹿野郎!」 清雅の怒号が辺りに響き渡った。珍しくも感情を露わにしている清雅を目の当たりにした周囲の者は驚きを隠せずにいた。一方、その声が向けられた相手は、というと。 秀麗はゆっくりと自分の身体が傾いでいくのをハッキリと感じていた。まるで時の流れが自分の周りだけ遅くなっているような感覚。視界の片隅に怒っている清雅の顔が見えた。あぁ、また彼を怒らせてしまった―と。それを最後に彼女の意識は途切れた。 石が流れて木の葉が沈む 「・・・おい。おい!しっかりしろ!」 誰かの呼ぶ声に、秀麗は意識を呼び戻された。うっすらと目を開けると、清雅の顔が目の前にあった。何だか泣きそうな顔をしている―と秀麗は思った。未だ重たい瞼をゆっくりと開くと、彼は顔を緩ませた。 「気付いたか」 横たわった秀麗の身体の横に膝をつき、顔を覗き込んでいた清雅は安心したのか地面にドサッと腰を落とした。 「私・・・」 秀麗は清雅の方を向き、顔を伺った。それに気付き、清雅は優しい声で秀麗に話しかける。 「覚えているか? お前、俺を庇って毒矢を受けたんだ」 「・・・」 秀麗は瞼を一度閉じて、"うん"、という答えの代わりにする。身体が酷く重かった。ゆっくりと毒矢が掠めていった右腕に目を向けると、そこは既に手当がされていて、白い包帯が幾重にも巻かれていた。―しかし、それは血で赤く染まっていた。 秀麗の視線を辿った清雅は、一瞬だけ動きを止めた後、手早く包帯をとり、懐から手巾を取り出して傷の上部を縛り、それから新たな包帯を巻き付けた。 彼は先ほどから何度も止血をしては、弛め、また縛りを繰り返していた。それでも血が止まらなかった。毒自体は問題だが、傷自体はそこまで酷くなかったのに―。 燕青が医者を呼びに行ったが未だ帰ってこない。 そんな清雅の様子をぼんやり眺めていた秀麗は徐に口を開いた。 「…毒矢を射た人物は捕まった?」 その声に清雅はピタリと動きを止めた。 「今はそんなことどうでもいいだろ」 手を止め、秀麗の顔をギロリと睨み付ける。 「そう」 秀麗は興味を失ったかのように視線を空に向けた。 ―どうして、あの時咄嗟に清雅を庇ったのだろう、と。 本当はさっきからそればかり気になっていたのだ。別に清雅に義理立てするつもりはない。けれど、勝手に体が動いていたのだ。清雅に向けられた毒矢と清雅の間に咄嗟に飛び込んで―。あげくの果てにこんな有様だ。彼は呆れているだろう。何故かそのことが―哀しい。 彼女の身体の不調に気付いていたのは、おそらく清雅の他にはリオウを除いて誰もいなかっただろう。彼女はいつも気丈に振る舞っていたし、仕事場で一番近くにいる燕青にすら、そのことを気付かせなかった。けれど、清雅はいつからか気付いていた。彼女が時折ふっと表情に暗い影を落とすことに。天敵である清雅を真っ正面から睨め付けている時でさえ、どこか不安げな色がその瞳に混じるようになったことに。 ある時、こんなこともあった。突然表情の抜け落ちた能面の様な顔つきになり、偶然にも近くに居合わせた仙洞令君・縹リオウの呼びかけによっていつもの表情を取り戻した。気を失ったままではあるが、秀麗の頬には確かに赤みが差し、表情も和らいでいる。リオウは側に居合わせた清雅に向けて次のように言った。 ―本当ならこの男に任せるのは間違っているのかもしれないが…。 『この女は厄介なモンを抱えてる。だが、今のところ俺やあんたに出来ることは何もない。…ただ見守ることしか、な』 清雅はその言葉の意味するところを汲み取った。 ―つまりは、側にいる俺がこいつを見張れ、と。 『…それが何かは教えてくれないのか?』 縹家の姿が以前から見え隠れしているのは様々な報告の中から伺えた。だから多分縹家の仕業だろうということは薄々清雅も気付いていた。しかし、何故―秀麗(この女)なのか。清雅にとって縹家の思惑などどうでも良かったが、ただそのことだけは知りたいと思った。 『これはこの女自身の問題だからな』 リオウはそれだけ言うと、すくっと立ち上がり二人に背を向けて去っていった。 リオウの姿が見えなくなったのを確認すると、清雅はゆっくりと腰を屈めて気を失ったままの秀麗を抱きかかえた。その身体は思った以上に軽かった。前よりも…痩せた気がする。 それから清雅は、仮眠室に秀麗を運び、寝台に彼女を寝かせて布団を掛けると、自分の執務室へと戻った。 「姫さん、お医者連れて来たぜ」 燕青が馬車を止め、馭者台から飛び降り、医療道具一式を手に駆けてくるのが見えた。その後ろから葉先生が早足でやってくる。葉先生を呼んだのは紅東区に住んでいる葉棕庚の所が宮城よりも近かったためだろし、他の医者を捜すよりは確実に知っている医者の元へ行った方が早いからだろう。 ―最初、事の次第に気付いた燕青は清雅に医者を呼びに行くように言った。 『陸御史、お医者頼むわ。俺、応急処置には慣れてるからな』 しかし、清雅は自分が駆けていって医者を呼ぶより、燕青が行った方がずっと早いと瞬時に判断し、また、応急処置程度のことならさして差は出ないとみた。 『いや、あなたが行って下さい。私が行くよりもあなたが行く方がずっと早いでしょう。応急処置くらいなら私にも出来ます』 毒消しが何としても早く必要だった。そのためには医者を早くここへ連れてくること。秀麗を医者の元へ連れて行くことは躊躇われた。身体を揺り動かせば、全身に毒が回りやすくなるからだ。馬車に乗せても、かなり揺れることは間違いなかった。 「どれ、診せてみなさい」 葉棕庚は清雅の座っている側(この時既に清雅は先ほどとは反対側、つまり秀麗の左腕側に移動していたのだが)と反対側の地面に腰を下ろし、秀麗の顔や傷の様子を一つ一つ診ていった。そして、葉棕庚は血止めに弟切草の葉を患部に貼ってから包帯を巻き直し、秀麗に毒消しの薬と痛み止めの薬を飲ませ、それを飲んだ秀麗は再び眠りに落ちた。 「なぁ、先生。姫さんの具合、どうだ?」 燕青は清雅の横に腰を下ろし、葉棕庚の顔を伺った。 「大した毒ではなかったからな。大丈夫じゃよ。ただ…」 「ただ…?」 燕青と清雅は声を揃えて問うた。 「いや…。こまめに傷口は消毒するんじゃぞ。矢の傷は跡が残りやすいから、嬢ちゃんが嫁に行けなくなったらお前さん達が責任もってなんとかするんじゃぞ」 が、一瞬考え込むような様子を見せた葉棕庚はニカッと笑い、そんな冗談を言った。 「こんな時に冗談きついぜ、葉先生」 燕青は苦笑混じりに頭を掻く。一方、清雅はただ黙って秀麗の寝顔を眺めていた。 毒矢を射た人物は後日縄にかかることとなった。もちろん、その人物を動かしていた官吏も。 今回、御史台が手に掛けていた案件は、とある武官が軍の武器保管庫から武器をこっそり盗んでは紫州に蔓延る賊に横流しをしていたというものであった。そして、その官吏は横流しをする代わりに賊が強奪した金品の一部を謝礼として受け取っていた。それだけでなく、この官吏は他にも賊の行動に目を瞑ったり、受け取った金品を元手に裏取引をやったりと色々やっていたようである。 勿論これらは全て把握済みで証拠も挙がっており、晴れてその官吏は失職、また然るべき刑罰を受けることとなったのだが。 何故二人が手掛けていたかといえば、おおよそ半々の証拠を各自が自分の持ちうる伝手を駆使して掻っ攫ってきたからであり、協力という形ではないにせよ、結果的にはそのような風にも見えた。 まぁ、ともかくも秀麗、燕青、清雅を始めとし、御史台直属の武官たちも含む多数が、その官吏の屋敷及び出入りしていた賊の根城を押さえるため、乗り込んだのだが―その動きに感づいた官吏は賊を動かし、反撃に出た挙げ句辛くも難を逃れ、姿を眩ましたのだった。 が、しかし御史台を甘く見て貰っては困る。姿を眩まして数日後。ある店で買い物をしているところを間抜けにも目撃され、その官吏はお縄にかかることになったのだ。そして、賊というものは団体であるからしてやはり目立つものである。すぐに新たな根城は押さえられることとなった。 精鋭ばかりの御史台直属武官たちは賊との闘いで一人の犠牲を出すこともなかったのだが、今回は秀麗が怪我を負ってしまった。それだけが唯一の失態だった。責任は誰のものでもない。 秀麗は数日の休みをもらい、自宅で療養していた。心配した武官たちが花を送り届けたこともあった。以前のように邵可邸に居候している燕青も仕事をなるべく早めに切り上げ、秀麗の様子をちょくちょく覗きにきた。傷がズキズキ痛んで菜を作るのもままならないので、静蘭がその代わりを引き受けている。 ちなみに、静蘭には秀麗が清雅を庇って傷を受けたということは伏せてある。ただでさえ、お嬢様の怪我という事実を知って蒼白になっている静蘭をさらに打ちのめすような事実を告げたらどうなることか。また、姪を溺愛する紅黎深は秀麗が怪我をしたという事実さえ知っていないからよいものの、その事実を知ったら清雅は抹殺されるに違いない。 事実を知るものは少なければ少ない方がいいのだ。…もちろん、清雅を庇った秀麗自身のためにも。 秀麗が怪我をした翌日の夜のこと。 「ねぇ、燕青。明日出仕しちゃ駄目かしら?」 秀麗は部屋で書物を捲っていたところに入ってきた燕青にこう述べた。 「駄目だな。」 燕青はあっさりと一言で秀麗の言を切り捨て、そして秀麗の机案の横まで来ると腰を屈めて彼女の目線に合わせてから口を開いた。 「姫さん、何そんなに急いでるんだ? 今は傷を癒すことに専念するべきだってことは分かってるよな?」 「そりゃ、分かってるわよ。でも、やることは一杯あるんだもの。ゆっくり休んでもいられないわ」 書物を閉じて秀麗は燕青の顔を真っ直ぐ見て、はっきりと言った。 「焦っても焦らなくても、得られるものは案外同じ。つーか、寧ろ焦らない方がいい結果が得られるのが世の常なんだぜ? 姫さん」 「燕青。よく分かってるわね。でも…ね。やっぱり気になるんだもの」 秀麗の気持ちを全て見透かしたような燕青の言葉に秀麗は瞠目する。やっぱり燕青は空気みたい、と思ってしまう。ただ、気になっていることが―ある。 「…もしかして、清雅のこと?」 それも燕青にすぐに言い当てられてしまった秀麗はふーっと一息つくと苦笑しながら言った。 「清雅って尋常じゃないのよね。膨大な量の仕事も難しい案件も、手慣れたあやとりみたいに糸をすいすいとって形を作り上げていく―」 「だから、負けていられないって思うんだな。姫さんは」 「そうよ。清雅の能力は、悔しいけど…私も認めざるを得ないわ。だから、せめて清雅と張り合えるくらいには、ね?」 「清雅に負けたくないっていうのは、分かるけどさ。けど、それとこれとは別。姫さんが身体壊したら元も子もねーじゃん?」 ポンポンと燕青は秀麗の頭を優しく叩いた。やっぱり燕青にはまだ子供扱いされているような気がする。それが心地よいというのも事実なのだが。 「…ねぇ、燕青。何で私あんなことしちゃったのかしら?」 暫くの沈黙の後。秀麗は口を開いた。 「さーな。姫さんは優しいからさ。例え清雅でも見て見ぬふりは出来なかったのかもなー」 燕青は立ち上がって窓から庭院を眺めて言った。 「私は燕青が言うみたいに、誰彼構わず命かけて守ろうとするようなデキた人間じゃないわよ」 秀麗もガタリと椅子から立ち上がると燕青と同じように庭院を眺めた。燕青と出逢ったあの夏からもう2年も経つのだ。それでも何故かずっと昔から、そしてずっと隣に燕青がいたような気がする。それほど燕青の存在は秀麗にとって大きい。 「姫さん、清雅のこと嫌い?」 何故かニヤリと笑って燕青は秀麗に顔を向けた。 「うん。死ぬほど嫌い」 秀麗はその問いに即答した。清雅はゴキブリ以下だ、と言わんばかりの形相で。清雅を好きなんてことは絶対にない。天地がひっくり返ってもあり得ない。それに、自分はある気持ちに最近気付いてしまった。だから―"それ"はない。燕青も分かってて言っているのだろう、と思う。 「じゃあさ、もしも明日突然清雅が死んだらどうする? 仕事とか関係無しに」 その答えを知っていたかのように燕青は次の問いを投げかけた。 「…花くらいは供えにいってもいいわ」 むむむ、と秀麗は一瞬口を噤んだが、そのように答えた。 「そーゆーこと」 ポカンとした秀麗を尻目に燕青は出て行こうとして、しかし思い出したように振り返った。 「やっべー。渡すの忘れるとこだったぜ。ほい、姫さん」 燕青は戻って秀麗の手に小瓶を握らせた。見れば文が結びつけられている。 「長官から姫さんにお見舞い」 何気なく言った燕青の言葉に秀麗は思わず小瓶を取り落としそうになった。 「えぇ?! まさか」 急いで文をガサガサと開いて目を通す。 『鹿蹄草の汁だ。傷口に塗布するといい。別に帰ってこなくても一向に構わんが、帰ってくるつもりなら傷をしっかり治してから来ることだ。 葵皇毅』 淡々とした長官の声が聞こえてくるような至って簡素で素っ気ない文ではあったが、一応心配してくれていたらしい。しかも、しっかり休め―と。他ならぬ葵皇毅からそう言われることで秀麗の心は落ち着いた。燕青に説得されても猶、出仕したいという気持ちでウズウズしていたのに。すとん、と素直に受け入れられた。 「せっかく休みをもらったんだもの。思いっきり満喫させてもらうわ」 秀麗は先ほどまでと打って変わって、明るい笑顔で燕青に宣言した。 「おっと、流石に長官には敵わないなぁ」 そう笑い飛ばしながら燕青は部屋を出て行った。それを見送った秀麗は早速小瓶の蓋を開け、服を捲り上げて包帯を解き、傷口を出して塗ってみた。傷口はまだ相変わらずの状態で、薬は沁みて痛かったけれど、それでも何故か秀麗は嬉しかった。 (…御礼の文を書かなくちゃ、ね。直接会って御礼も言うつもりだけど、また何か面白いこと言われそうだし) 御史台長官・葵皇毅を『面白い』と評する者はなかなかいないだろう。何せ無口で淡々と喋り、氷のように冷たい双眸で見つめられれば悪いことをやっていなくても自分がやりましたと言ってしまいそうになるようなお方だ。しかも、その位は六部尚書より上の正三品上―。葵皇毅に向かってズケズケと思ったことを言える 秀麗の度胸はある意味凄い。 しかし、そんな秀麗に向かって、『甘い』だの『使えない』だの『クビにするぞ』などと酷いことを悪びれることなく幾度となく 言っている葵皇毅ではあるが、何だかんだいって前々から秀麗のことを気にかけてくれているようではある。秀麗は気付いていないかもしれないが―。 そして、秀麗は痛みが治まり、傷口が塞がってから朝廷に出仕した。規定の出仕時刻よりは随分と早い。腕の痛みもなくなり目覚めは爽快だった。初秋の朝のひんやりとした空気を吸いながら秀麗は足取りも軽く御史台の中へと入っていった。と、出仕早々、顔を合わせたくもない輩に出逢ってしまった。 「もう治ったのか?」 御史台の廊下でまるで秀麗が今日そこを通ることを知っていたかのように壁にもたれ掛かっていた清雅が話しかけてきた。 「えぇ。お陰様で」 清雅は秀麗が休んでいる間に文や花の一つも寄越さなかったが、まぁ当然と言えるだろう。というより、届いたら即行屑篭行きだったかもしれない。 しかし、秀麗が休んでいた間、清雅が代わりにその仕事もやっていただろうことは秀麗にも想像がついた。ので、嫌味を込めて、というわけではなかった。それに、一応"治ったのか?"と気遣っているようなので戦闘態勢には入らない。 「妙に素直だな」 物珍しそうに清雅は壁から背を離すと、徐に秀麗の右手をとり、官服の右腕側の衣(きぬ)をたくしあげると傷口の具合を確かめた。 「なっ…いきなり何するのよ?」 突然右腕が上の方まで露わにされた秀麗は羞恥心から清雅の手から逃れようとした。そう、これが別に清雅でなくてもそうしただろう。 「ふーん。」 清雅はジロジロと秀麗の腕を眺めると元通りに衣を戻して秀麗の手を放した。 「な、何よっ」 何かもっと言われるかと思った秀麗は言葉少ない清雅を気味悪く思った。 「別に。溜まった仕事、後で持っていってやる。喜べ」 清雅はそれだけ言うとひらひらと手を振って自分の部屋へ優雅な足取りで去っていった。 (…庇ったこと、もう怒ってないのかしら) 傷を負って意識がボンヤリしていたとはいえ、清雅の怒号は今でも耳に残っている。だから、清雅に文句や嫌味の一つや二つ、いや、堰を切ったように言われると思っていた秀麗は変な気がしたのだ。 まぁ、あれから時間も経っているし、清雅にとってもどうでもいいことなんでしょう、と秀麗は思い直して自分の部屋へと足を運んだ。そして、秀麗がそこで見たものは。山のように机の上に積み上げられた仕事の書翰や料紙。覚悟はしていたが―。 「よし、やるわよ!」 秀麗はえいっと頭に鉢巻きをして徹夜で頑張る国試受験生のような意気込みで仕事に取りかかった。最近殆ど動かしていなかった右腕を動かし料紙に筆を滑らせる。仕事をするのが当たり前のような毎日だったから、休んでいた間は何か物足りない気がしていた。溜め込んだ精力を全て注ぎ込むかのように秀麗は次々に仕事を片付けていった。 と、途中で清雅が言ったとおり山盛り仕事を持ってやってきた。 「これとこれはお前に任せるそうだ。あと、こいつは必要な資料を集めて俺の所に持ってこい。それからこれは―」 と、仕事の指示を振った後で清雅は椅子に腰を下ろすと、じっと秀麗を見つめた。 「…何? 生憎あんたに構ってる暇はないんだけど」 視線に気付いた秀麗は手を止め、うっそりとした眼で山積みの仕事の山の間から辛うじて見える清雅の顔を見つめた。 「仕事しながらでも話は出来るだろ」 頬杖をついて右手の人差し指でトントン、と机を叩きながら清雅は言う。 「…まぁ、いいわよ」 秀麗はそれを聞いて、再び手を動かし始めた。その様子を満足そうに眺めながら、清雅はゆっくり口を開いた。 「今回のお前の怪我は俺の失態(ミス)だ」 清雅が思った以上に口から出た声の響きは暗かった。秀麗はそんな清雅の声を耳にするのが初めてであったから、驚いた。それに、てっきり自分が勝手に庇ったことを責めるのかと思っていたから秀麗は清雅の言葉が信じられなかった。また、それ以前に自分のせいだと自覚している。 「私を責めないのね」 「事前に相手の動きを把握していれば、避けられた事故だ」 淡々と清雅は話した。先ほどと体勢が変わったのか秀麗の側からはその姿を確認することは出来なかったので、秀麗は清雅がどんな顔をしているのか分からない。 「だが。今後一切ああいうことをするな。余計なお節介だ」 来た―ようやく清雅が秀麗の行動を認めないと口にした、と秀麗は思った。が、よくよく考えれば"今後"と言っていることからすれば、今回のことは別らしい。 「今回のことはいいのね」 そっけなく秀麗は口を挟んだ。 「良くはない。が、お前の行動を無駄にするようなことを俺は言うつもりはない」 大きく溜息をついてから清雅は言った。清雅は秀麗が"自分のために"動いたことを否定したくなかった。あるいは、そのことに甘えていたかったのかもしれない。 (…これはどういう意味なの?) 秀麗は怪訝な顔つきになりながら、楸瑛が藍州で調べてくれた塩に関する資料に目を通し始めた。えぇっと…藍州産の塩の流通経路は―っと。 「だから、今後気をつけるんだな。第一、お前は女だろ。もっと自覚したらどうなんだ?」 以前何度も蘇芳に言われたようなことを清雅に言われて秀麗はむっときた。タンタンに言われるならまだしも、清雅にまで言われると無性に腹が立つ。 「あ、そう。でも官吏であることに男女が関係あるかしら」 秀麗は書き終えた料紙を横に除け、新しい料紙をとって資料の中から見つけた細かい数値や記述などを書き付けていく。 「傷が」 バンッと立ち上がった清雅が拳で机案を叩く音が響いた。硯の中の墨が大きく揺れる。 ―良かった、墨が溢れなくて。 秀麗がそう思っていると清雅がドサッと再び椅子に座る音が聞こえた。そして、その後に震えたような清雅の声が聞こえてきた。 「傷が痕に残ったらどうするんだ? それくらい考えて行動しろ」 その言葉を最後に部屋はしんと静まりかえった。すると、代わりに開けはなった小窓からひぐらしのカナカナという甲高い声が部屋の中に響いてきた。 秀麗はひたすら仕事を片付け続けた。…一応、清雅が話し出すのも待ってはいた。しかし、清雅は一向に動こうとする様子もないし、何かを口にしようとする様子もないようだった。 コキリ、と秀麗は首を一度だけ鳴らすと、徐に立ち上がり茶器を取り出してきて、お茶を二人分淹れた。 「どうぞ」 秀麗は清雅の座る席へと足を運んだ。清雅は机に両腕を乗せ、片方の手は伸ばした状態で、もう片方は折り曲げてその上に頭を乗せるような格好で座っていた。 清雅の分のお茶を清雅の顔が向けられた方へ置き、自分は先ほどまで作業をしていたのとは違う椅子―清雅が見える位置に腰掛け、お茶を啜った。 むくりと清雅は起きあがると、茶器に手を伸ばし、同じように茶を口に含んだ。 「―甘い。」 そして一言こう呟いた。 「そりゃ、当然よ。甘露茶だもの。甘いの苦手だった?」 クスリと秀麗は笑った。秀麗も甘露茶を飲むのは実に久しぶりだった。前からこの部屋にもいくらか置いてあるのは知っていたのだが―なかなか手が出せずにいた。今日淹れたのはただの気まぐれ。というか、むしろ淹れてみようという気になったのだ。 「嫌いじゃない」 そう言って清雅は再び甘露茶を啜った。口の中に広がる優しい甘みと、少しトロッとした舌触りが柔らかく、じんわりと温かさが胸に広がる。 そして、清雅は唐突に気付いた。以前から胸の中でモヤモヤと蟠っていた気持ちの理由に―。 「甘いのは、嫌いじゃない」 清雅はその涼やかで理知的な、そして真剣な瞳で真っ直ぐと秀麗を見つめて言った。 「私もこのお茶、好きよ」 秀麗は首を捻って答えた。何故さっき言った言葉を繰り返すのだろう、と。 「違う。お前の甘さも、嫌いじゃない」 清雅は一度両目を閉じ、そして再び開いて言った。 「それはどういう―」 そう問いかけようとして、清雅がその手をとったことで秀麗は言いかけた言葉を呑み込んだ。反対の手に持っていた茶器をコトリと下ろす。ここまで真剣な清雅の表情を見るのは初めてかもしれない。仕事の時でさえ、清雅は大概余裕の表情でそれをこなしている。 「傷痕が…もし、残ったら―そしたら、俺が責任をとる」 清雅は今朝と同じように右腕の怪我の跡を隠す官服の衣をそっとたくし上げると、その傷跡をながめて言った。 「なぁに? まさか嫁にでもとろうってんじゃないでしょうねぇ。そんなの願い下げよ? あんたといたら神経磨り減らして寿命が百年縮むわよ。第一、私は傷痕の一つや二つ、気にしないし」 秀麗は清雅の突拍子もない行動には動じず、そうやって笑い飛ばした。が、清雅はじっと秀麗の顔を覗き込んでくる。あくまでも真剣な眼で。 「な、何よ? まさか図星―とかじゃないわよね。あんた、私のこと死ぬほど嫌いなんでしょ?」 そんな清雅の様子に戦慄きながら、更に喋り続けた。もしも沈黙が落ちたら―何故か居たたまれないと思ったのだ。 「嫌いだ」 清雅は唇を噛んで言った。そして、更にこう続けた。 「でも、嫌いじゃない」 そう告げて、清雅は秀麗の腕を掴んでいた手を滑らせ、彼女の指に自分の指を絡ませ、更にもう一方の手で秀麗の腰を引き寄せた。 「…は?」 と、秀麗は清雅が何をしようとしているかに気付き、辛うじて空いていた左手を清雅の口元に当てた。 「あんたに何をされようが私は何も失わないって思ってたけど、最近考え直したの。だから、易々とあんたに唇を奪われたりしない」 秀麗はきっと清雅を見据えた。 (―まさか。) 清雅は気付いた。秀麗の気持ちに。気付いてしまったのだ。この瞬間に。 「へぇ。好きな奴でも出来たのか。まさか、王―とか言うなよ?」 清雅は秀麗を解放して一歩下がった。動揺を悟られないように口から出した声は思ったより落ち着いていた。力づくで秀麗をどうこうしようと思えば出来る。でも、あえて清雅はそれをしなかった。 「…さぁ、どうかしらね。自分で調べたら? 陸御史」 秀麗はニッコリと満面の笑みを作ると、仕事を再開するべく席へ戻った。清雅もそれ以上ちょっかいを出さなかった。 部屋から出るとき、一度だけ秀麗の方を振り返り、凄艶な微笑を浮かべて清雅はこっそりと呟いた。 「どんな手を使っても、お前をおとしてみせる。楽しみにしておけ」 →→後書き 燕青の口調が…難しい(汗)また研究しておきます。何気に燕青がこれからどういう立場になるのか分からないんですけど(汗)勝手に御史台組に加えても良かったんだろーか? 藍州の時は秀麗が権利行使して皇毅から任命書もらってたからいいんだけど…戻ってきたら燕青どうなるんだろ? でも、国試受けてないし、制試も受けられなかったし…また帰ってしまうのか? それも変な感じ、ということで勝手に御史台に使われてる燕青設定で。あくまで秀麗付きという設定ですが。タンタンがついにドナドナされてしまってるし…!うわわわわ。でも、何かタンタンと燕青って似てる気がしますね。うん。最初、秀麗→清雅かと思いきや、とんでもない。清雅→秀麗が濃厚になりましたね。秀麗には簡単に靡かないで欲しいなぁ〜。 |
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